フィリッピーノ=リッピとは? わかりやすく解説

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リッピ【Lippi】

読み方:りっぴ

[一]Fra Filippo 〜)[1406〜1469]イタリア画家フィレンツェ派現世的人間的情緒たたえた聖母子像好んで描いた

[二](Filippino 〜)[1457ころ〜1504]イタリア画家フィレンツェ派[一]の子。父に学び、のち、ボッティチェリ師事


フィリッピーノ・リッピ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/29 22:12 UTC 版)

フィリッピーノ・リッピ
Filippino Lippi
自画像。 Detail from The Dispute with Simon Magus (1481–1482)
フレスコ, イタリアフィレンツェSanta Maria del Carmine,Brancacci Chapel
生誕 Filippo Lippi
1457年
フィレンツェ共和国, プラート
死没 1504年4月
フィレンツェ共和国, フィレンツェ
国籍 イタリア
教育 フィリッポ・リッピ
著名な実績 絵画, フレスコ画
代表作 Apparition of the Virgin to St Bernard
Adoration of the Magi
運動・動向 ルネサンス
影響を与えた
芸術家
Raffaellino del Garbo

フィリッピーノ・リッピFilippino Lippi,1457年 - 1504年4月)は、イタリア画家フィリッポ・リッピの息子。母は父の聖母子像のマリアのモデルにもなったルクレツィア・ブティ

生涯

フィレンツェ共和国プラートで生まれた。有名な画家であったフィリッポ・リッピが、プラートのサンタ・マルゲリータ修道院の修道女であったルクレツィア・ブティを自宅に連れ帰り一緒に住むようになりフィリッピーノ・リッピが生まれたのはフィリッポ・リッピが51歳ほどの時であった。コジモ・デ・メディチのとりなしで正式の夫婦になることが許され、父親が再びプラートの大聖堂の壁画の仕事に戻り、フィリッピーノ・リッピは父親の仕事場で父親の弟子のサンドロ・ボッティチェッリ(1445-1510)らに学んだ。12歳になった1469年に父親が亡くなると、父親の弟子であったフラ・ディアマンテ(Fra Diamante: c.1430–c.1498)のもとで養育された。23歳になった1480年からフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂のブランカッチ礼拝堂のマサッチオ(1401-1428)が未完で残した壁画の仕事に取組み1484年ころにに完成させた。父同様画家となり、メディチ家お抱えになった。特に、ボッティチェリと共にフィレンツェの黄金期を築いたロレンツォ・デ・メディチから注文を受けフィレンツェやローマのに教会の壁画を描いた。

1497 年に結婚し、3人の息子が生まれたが1504年に47歳で没した。

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