ハンガリー革命からアウスグライヒへ
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「アンドラーシ・ジュラ」の記事における「ハンガリー革命からアウスグライヒへ」の解説
1848年から翌年にかけてのハンガリー革命と独立戦争にコシュートを支持して参加するが、革命は敗北しアンドラーシはパリ・ロンドンでの亡命生活を余儀なくされた。1857年に恩赦で帰国した後は、ハプスブルク王家と和解してハンガリーの自治権獲得をめざし、自由主義者デアーク・フェレンツとともにオーストリア帝国との妥協(アウスグライヒ)を推進した。この結果、1867年にハンガリー王国に広範な自治が認められ、独自の政府・議会を有することが認められると、同年2月20日、アンドラーシは(二重帝国の下では)初代の首相兼国防相となった。1871年、オーストリア側のカール・フォン・ホーエンヴァルト首相が、帝国内のチェコ人とのアウスグライヒ(ボヘミア・アウスグライヒ)を立法化すると、アンドラーシ首相は帝国内でのハンガリー人の地位が相対的に低下し、ハンガリー領内のスラヴ系住民(スロヴァキア人など)の民族意識を鼓舞することを懸念して反対した。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世も彼に同調し同法を承認しなかったため、ボヘミア・アウスグライヒは破棄された。
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