ドロテア・ゾフィア・フォン・プファルツ=ノイブルクとは? わかりやすく解説

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ドロテア・ゾフィア・フォン・プファルツ=ノイブルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/23 14:30 UTC 版)

ドロテア・ゾフィー・フォン・プファルツ=ノイブルク
Dorothea Sophie von Pfalz-Neuburg
パルマ公
在位 1696年 - 1727年

出生 (1670-07-05) 1670年7月5日
神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領ノイブルク・アン・デア・ドナウ
死去 (1748-09-15) 1748年9月15日(78歳没)
パルマ公国パルマ、サンタ・マリア・デッラ・ステッカータ教会
埋葬 パルマ公国パルマ、サンタ・マリア・デッラ・ステッカータ教会
結婚 1690年5月17日
1695年12月8日
配偶者 オドアルド2世・ファルネーゼ
  パルマ公フランチェスコ・ファルネーゼ
子女 アレッサンドロ・イニャツィオ
エリザベッタ
家名 プファルツ=ノイブルク家
父親 プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルム
母親 エリーザベト・アマーリア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
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ドロテア・ゾフィー・フォン・プファルツ=ノイブルク(Dorothea Sophie von Pfalz-Neuburg, 1670年7月5日 - 1748年9月15日)は、パルマ公子オドアルド2世・ファルネーゼ妃、後にパルマ公フランチェスコ・ファルネーゼ妃。イタリア語ドロテア・ソフィア・ディ・ネウブルグ(Dorotea Sofia di Neuburg)。

生涯

プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世の娘エリーザベト・アマーリアの6女として生まれた。兄にヨハン・ヴィルヘルムカール3世フィリップ、姉に神聖ローマ皇帝レオポルト1世エレオノーレ・マグダレーネポルトガルペドロ2世マリア・ソフィアスペインカルロス2世マリア・アナがいる。

1690年5月17日にパルマ公ラヌッチョ2世の長男オドアルドと結婚、2子を生んだ。

1693年9月6日、長男アレッサンドロの死から1ヶ月後にオドアルドが亡くなった。ドロテア・ゾフィアは1695年12月8日、オドアルドの異母弟フランチェスコと再婚した。1694年にフランチェスコはパルマ公となった。

2度目の結婚では子供が生まれなかった。1727年にフランチェスコは亡くなり、兄弟で生き残っていたアントニオが継いだ。ところが、1731年にアントニオも子なくして死に、パルマ公位はエリザベッタの生んだ16歳のカルロ(後のスペイン王カルロス3世)が継いだ。

ドロテア・ゾフィアは、ポーランド継承戦争の結果オーストリア・ハプスブルク家へとパルマ公国が割譲される1735年まで摂政を務めた。




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