フィリップ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・デア・プファルツとは? わかりやすく解説

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フィリップ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・デア・プファルツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/11 00:56 UTC 版)

フィリップ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・デア・プファルツ
Philipp Wilhelm August von der Pfalz

出生 (1668-11-19) 1668年11月19日
神聖ローマ帝国
プファルツ選帝侯領ノイブルク・アン・デア・ドナウ
死去 (1693-04-05) 1693年4月5日(24歳没)
神聖ローマ帝国
ボヘミア、ライヒシュタット(現ザークピ)
埋葬 神聖ローマ帝国
ボヘミア、ライヒシュタット教区教会
配偶者 アンナ・マリア・フランツィスカ・フォン・ザクセン=ラウエンブルク
子女 レオポルディーネ・エレオノーレ
マリア・アンナ・カロリーネ
家名 プファルツ=ノイブルク家
父親 プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルム
母親 エリーザベト・アマーリア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
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フィリップ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・デア・プファルツ(Philipp Wilhelm August von der Pfalz, 1668年11月19日 - 1693年4月5日)は、ドイツのプファルツ=ノイブルク家の公子。

生涯

プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムとその妻でヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世の娘であるエリーザベト・アマーリアの間の第13子、八男として生まれた。フィリップ・ヴィルヘルムはウィーンに住む長姉の神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネと、ブレスラウ(現在のポーランドヴロツワフ)に住む兄のブレスラウ司教フランツ・ルートヴィヒの許を訪れた後、1689年イタリアへのグランドツアーに赴いている。

フィリップ・ヴィルヘルムは聖職者ではなく世俗の世界で身を立てようと考え、軍人になった。

1690年10月29日にザクセン=ラウエンブルクユリウス・フランツの娘アンナ・マリア・フランツィスカと結婚した。2人の結婚式は、フィリップ・ヴィルヘルムの父選帝侯が亡くなったために延期され、簡素に行われた。夫妻は2人の娘をもうけた。

しかし、結婚の3年後に「悪性の熱病」に冒されてわずか1週間後に亡くなり、ライヒシュタットの教区教会に埋葬された。24歳没、心臓だけは抜き取られ、故郷のノイブルク城内教会に安置された。

フィリップ・ヴィルヘルムの死の4年後、未亡人アンナ・マリアはトスカーナ大公ジャン・ガストーネ・デ・メディチと再婚した。




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