タガイ (カルルク部)
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タガイ(モンゴル語: Taγai、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、カルルク部の出身。『元史』では塔海(tǎhǎi)と漢字表記される。
概要
タガイはカルルク部出身の将軍で、チンギス・カン、オゴデイ・カアン、モンケ・カアン、クビライ・カアンの4代の皇帝に仕えたテメチの孫で、クトゥグ・テムルの兄の子で、長じるとトトガクが統べるキプチャク軍団(カラチ、qarači)に属した。1287年(至元24年)にはキプチャク軍団の一員としてナヤンの乱鎮圧に従事し、1289年(至元26年)には新たにケシクテイのバウルチとされ、ジスン服を下賜された。オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位した後、1300年(大徳4年)には中書直省舎人の地位を授けられ、さらに中書省客省副使の地位に移った。クルク・カアン(武宗カイシャン)の即位時には中統鈔500錠を下賜され、和林行省理問の地位に進んだ。また僉通政院事、和寧路総管を経て、汴梁路総管に改められた[1]。
汴梁路に赴任していた頃は従来の厳しい取り立てを改め、また廬州路に赴任していた時には、蝗害対策に務めたことが伝えられている[2]。
1328年(天暦元年)には天暦の内乱が勃発し、同年10月には枢密院の官がタガイを僉枢密院事に任じられ、潼関と河中府を守らせることを上奏した。そこでトク・テムル(後の文宗ジャヤガトゥ・カアン)は使者を派遣してタガイに白金鈔幣を下賜し、僉枢密院事の地位を授けた。それからほどなく、西方より敵軍が南陽府を攻めてきたため、これを撃退するべくタガイが出陣した。タガイは勇士やテムゲらを率いて敵軍を迎え撃ち、遂にこれを敗走させることに成功した。この功績により三珠虎符を下賜され、最後には大都督・資善大夫の地位に至ったとされる[3]。
脚注
- ^ 『元史』巻122列伝9鉄邁赤伝,「塔海、漢卿兄子也。世祖時、従土土哈充哈剌赤。至元二十四年、扈駕征乃顔。二十六年、入覲、帝命充宝児赤、扈駕至和林、賜只孫冠服。大徳四年、授中書直省舎人。遷中書客省副使。武宗即位、賜中統鈔五百錠、以旌其能。尋進和林行省理問、改僉通政院事。歴和寧路総管、改汴梁路」
- ^ 『元史』巻122列伝9鉄邁赤伝,「先是、朝廷令民自実田土、有司縄以峻法、民多虚報以塞命、其後差税無所于徴、民多逃竄流移者。塔海以其弊言于朝、由是省民間虚糧二十二万、民頼以安。後改任廬州路、時有飛蝗北来、民患之、塔海祷于天、蝗乃引去、亦有堕水死者、人皆以為異。民乏食、開廩減直、俾民糴之、所活甚衆」
- ^ 『元史』巻122列伝9鉄邁赤伝,「天暦元年冬十月、枢密院臣奏以塔海充僉枢密院事、守潼関及河中府。帝遣人馳賜白金鈔幣、宣授僉枢密院事。未幾、西軍犯南陽、督諸衛兵往平之。至其地、首率勇士与帖木哥等戦、摧其前鋒将、奪其旗鼓、西軍敗走。賜三珠虎符、進大都督、累官資善大夫」
参考文献
- タガイ_(カルルク部)のページへのリンク