クトゥグ・テムルとは? わかりやすく解説

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クトゥグ・テムル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/23 10:50 UTC 版)

クトゥグ・テムルモンゴル語: Qutugu temür、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、カルルク部の出身。『元史』では虎都鉄木禄(hǔdōu tiěmùlù)と漢字表記される。

概要

クトゥグ・テムルは、カルルク部出身の将軍で、チンギス・カンオゴデイ・カアンモンケ・カアンクビライ・カアンの4代の皇帝に仕えたテメチの息子であった[1]

クトゥグ・テムルは幼いころより読書を好み、学士大夫と交流したことから、漢卿と称した。しかし、ブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)は「漢が姓、卿が名」だと不譲な名であるとして、「漢卿」を名とするよう述べ、これ以後母が漢族の劉氏であったことに因んで「劉漢卿」と呼ばれるようになったという[2]

1274年(至元11年)、バヤンによる南宋領侵攻が始まった後、南宋の首都の臨安の占領に成功すると、南宋宮室の財産の接収のため派遣された[3]。その後、平章のアウルクチとともに入して忠顕校尉総把、ついで昭信校尉の地位を授けられている[4]。また1285年(至元22年)には、奉訓大夫・荊湖占城等処行中書省理問官の地位を授けられている[5]

1286年(至元23年)にはアウルクチとともに第三次ベトナム遠征に加わるよう命じられたが、この遠征は失敗に終わった。クトゥグ・テムルは無事鄂州に生還できたものの、このころ権臣のサンガが威勢を振るう時期であったため、クトゥグ・テムルは生家にて一時隠遁することとなった[3]1291年(至元28年)にはハルガスン・ダルハンが湖広行中書省平章政事として赴任し、この方面で事務に長けた者を探した所、多くの者がクトゥグ・テムルを推薦した。そこで春はクトゥグ・テムルを再び登用するよう計らい、再び給事中に抜擢された。その後、湖広行省平章政事の劉国傑が主導するベトナム再征に協力するも[6]、クビライが崩御したことを受けて福建行省郎中の地位に遷った。それから、朝列大夫・漢陽府監、中順大夫・荊湖南道宣慰副使へと地位が移っている[7]

また峒酋の岑雄が反乱を起こした時には、詔を奉じてこれを諭し、服属させることに成功した。大中大夫・河南行中書省郎中、通議大夫・同僉枢密院事・礼部尚書、正議大夫・兵部尚書、中奉大夫・荊湖北道宣慰使の地位に改められた[8]

これより先、1309年(至大2年)には慶元路で日本人商人が暴動を起こして城内に火災が発生する事件があり(至大倭寇)、これによって日元間の往来は途絶えていた[9]。このため、浙東地方は「倭奴の商舶が貿易し乱を起こす」地域として警戒されていたが、クトゥグ・テムルが1316年(延祐3年)に浙東道都元帥として着任して以後は海陸で暴動が起こることなかったという[10][11]

脚注

  1. ^ 『元史』巻122列伝9鉄邁赤伝,「鉄邁赤、合魯氏。……子八人、虎都鉄木禄最顕」
  2. ^ 『元史』巻122列伝9鉄邁赤伝,「虎都鉄木禄好読書、与学士大夫遊、字之曰漢卿。仁宗嘗顧左右曰『虎都鉄木禄字漢卿、漢名卿不譲也、汝等以漢卿名之宜矣』。其母姓劉氏、故人又称之曰劉漢卿云」
  3. ^ a b 桜井 2009, p. 177.
  4. ^ 山本 1950, pp. 200–201.
  5. ^ 『元史』巻122列伝9鉄邁赤伝,「至元十一年、従丞相伯顔渡江。既取宋、遣視宋故宮室、護帑蔵。諭下明・越等州。従平章奥魯赤入覲、授忠顕校尉総把、再転昭信校尉。二十二年、授奉訓大夫、荊湖占城等処行中書省理問官。時行省之名曰荊湖占城、曰荊湖、曰湖広、凡三改。理問一日以軍事入奏、敷陳辨白有指趣。世祖大悦、若曰『辞簡意明、令人楽於聴受、昔以其兄阿里警敏捷給、令侍左右、斯人顧不勝耶』。勅都護脱因納志之。平章政事程鵬飛建議征日本、奏漢卿為征東省郎中。帝顧脱因納、若曰『鵬飛南士也、猶知其能。姑聴之、候還、朕自録任』。征東省罷、徴漢卿還。丞相阿里海牙以湖広行省機密事重、捨漢卿無可用者、遣郎中岳洛也奴奏留、従之」
  6. ^ 山本 1950, p. 263.
  7. ^ 『元史』巻122列伝9鉄邁赤伝,「二十三年、従皇子鎮南王征交趾。比還鄂時、権臣方擅威福、遂退処于家。二十八年、詔太傅・右丞相・順徳王答剌罕擒権姦于鄂。答剌罕遂拝湖広行中書省平章政事、詢旧人知方面之務者、衆薦漢卿、遣使即南陽家居駅致武昌、奏事京師、帝嘉之、擢給事中。居再歳、提刑按察司改粛政廉訪司、台臣奏授奉議大夫・広西海北道副使、陛辞、留之仍旧職。既而湖広行省平章政事劉国傑奏伐交趾、造戦船五百于広東、帝曰『此重事也、須才幹臣乃済用』。以漢卿督匠南方、勅曰『汝還、当顕汝于衆』。因頓首謝。事既集、帝崩、遷福建行省郎中、朝列大夫・漢陽府監、中順大夫・荊湖南道宣慰副使」
  8. ^ 『元史』巻122列伝9鉄邁赤伝,「峒酋岑雄叛、奉詔開諭、頑獷怗服。改大中大夫・河南行中書省郎中、通議大夫・同僉枢密院事・礼部尚書。大臣奏覈実江南民田、漢卿奉詔使江西、以田額旧定、重擾民不便、置不問。止奏茶漕置局十有七所、以七品印章勅授局官五十一員、増中統課緡五十万。転正議大夫・兵部尚書。未幾命為中奉大夫・荊湖北道宣慰使、已命復留之」
  9. ^ 榎本 2007, p. 124-125.
  10. ^ 榎本 2007, p. 125/164.
  11. ^ 『元史』巻122列伝9鉄邁赤伝,「延祐三年、大臣以浙東倭奴商舶貿易致乱、奏遣漢卿宣慰閩・浙、撫戢兵民、海陸為之静謐云。従子塔海」

参考文献

  • 櫻井智美「元代カルルクの仕官と科挙 慶元路を中心に」『明大アジア史論集』第13号、2009年
  • 榎本渉「元朝の倭船対策と日元貿易」『東アジア海域と日中交流』吉川弘文館、2007年
  • 山本達郎『安南史研究』山川出版社、1950年
  • 元史』巻122列伝9鉄邁赤伝
  • 新元史』巻129列伝26虎都鉄木禄伝



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