セサル・ガビリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/29 05:29 UTC 版)
セサル・アウグスト・ガビリア・トルヒージョ César Augusto Gaviria Trujillo |
|
![]() |
|
|
|
任期 | 1990年8月7日 – 1994年8月7日 |
---|---|
|
|
出生 | 1947年3月31日(78歳)![]() ペレイラ |
政党 | コロンビア自由党 |
配偶者 | アナ・ミレーナ・ムーニョス・ゴメス |
子女 | 1男1女 |
セサル・アウグスト・ガビリア・トルヒージョ(César Augusto Gaviria Trujillo、1947年3月31日 - )は、コロンビアのエコノミスト、政治家。1990年から94年にかけて同国の大統領を、1994年から2004年までは米州機構の事務総長を務めた。現在、マドリードのクラブのメンバーでもある。[要出典]
生い立ち
1947年3月31日、リサラルダ県ペレイラで生まれる。アンデス大学経済学部を主席で卒業[1]。23歳でペレイラ市会議員に当選し、政治家としてのキャリアを歩み始める[1]。1974年に共和国議会議員に当選[1]。1986年の大統領選ではバルコ陣営の選対委員長を務め、自由党の政権奪回に貢献[1]。ビルヒリオ・バルコ政権では大蔵相、内務相、経済開発省次官、代議員(下院)議長を歴任する[1][2]。内相時代には左翼ゲリラ「M19」との和平交渉を成功させる[1]。
大統領選挙
1990年の大統領選で、当初はルイス・カルロス・ガランがバルコ大統領の後継として大統領選に立候補していた[1]。しかし、ガランは選挙活動中の1989年8月、麻薬マフィアに暗殺されてしまう[1]。この年の大統領選は、左派政党「愛国同盟」と左翼ゲリラから合法政党に転換したM19からの立候補者も相次いで暗殺されるなど、情勢が不安定だった。自由党は、当時党の選対委員長を務めていたガビリアをガランに代わり立候補させ、ガビリアは47%の得票率で2位に大差をつけて当選した[2]。
大統領
8月7日に大統領に就任[2]。就任演説で「ガラン氏の航跡を追うのは私には難しいが、その理想を追求する」と表明した[1]。野党を含む挙国一致内閣を組閣。1991年には1886年憲法の改正を実現する。1994年に任期満了で大統領を辞任した。
人物
ロックが大好きで、集めたレコードは4000枚あるという。また、ガビリア本人はピンク・フロイドのファンと語っている[1]。
アナ・ミレーナ夫人との間に一男一女がいる[1]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k 『毎日新聞』1990年5月28日付夕刊、第4版、第2面
- ^ a b c 「コロンビア 大統領にガビリア氏 与党「反麻薬」で支持集める」『毎日新聞』1990年5月28日付夕刊、第4版、第1面
公職 | ||
---|---|---|
先代 ビルヒリオ・バルコ |
![]() 第28代:1990 - 1994 |
次代 エルネスト・サンペール・ピサーノ |
- セサルガビリアのページへのリンク