シャンカラージー・ナーラーヤン・サチーヴとは? わかりやすく解説

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シャンカラージー・ナーラーヤン・サチーヴ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/24 14:06 UTC 版)

シャンカラージー・ナーラーヤン・サチーヴ(Shankaraji Narayan Sacheev, 1665年 - 1707年11月)は、インドデカン地方マラーター王国の政治家。アシュタ・プラダーン(八大臣)の一人で、書記長官(サチーヴ)の地位にあった。

歴史

1665年、シャンカラージー・ナーラーヤンはバラモンのナーロー・ムクンドの息子として生まれた。彼はマラーターの指導者シヴァージーに仕えていた。

1677年、宰相(ペーシュワー)のモーロー・パント・トリンバク・ピンガレーの下で政界に出て、その後すぐマ―ヴァル地方の統治のため、ラーマチャンドラ・パント・アマーティヤに取り立てられた。そして、マラーター王サンバージーの治世には八大臣の一人書記長官(サチーヴ)となった。

1689年、サンバージーがムガル帝国の皇帝アウラングゼーブに殺害されると、新たにマラーター王となったラージャーラームシェンジ(ジンジー)に逃げ、その地を王都とした[1]。だが、シャンカラージー・ナーラーヤンはラーマチャンドラ・パントとともにマハーラーシュトラに残り、西ガート山中の城を拠点に残された領土の行政にあたった[2]

1707年3月、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブが死亡すると、帝国軍はデカン方面から引き揚げた。マラーター王子シャーフーも釈放され、彼はマラーター王シヴァージー2世とその母ターラー・バーイーを打倒するために兵を集めた[3]

1707年10月12日、シャーフーはシヴァージー2世とその母ターラー・バーイーの軍勢をプネー近郊ケードにおいて破り、王都サーターラーへと向けて進軍した。その道中、シャーフーはローヒダー城を守るシャンカーラージー・ナーラーヤンにも服属を求めたが、彼はこれを拒否し、自害した[4]

脚注

  1. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.211
  2. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.211
  3. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212
  4. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212

参考文献

  • 小谷汪之編『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年
  • ‘Shankaraji Narayan’ (Marathi) by K.V. Purandare
  • ‘Marathi Riyasat Volume II’ (Marathi) by Govind Sakharam Sardesai
  • ‘Jedhe Shakawali’ (Marathi) Edited by Dr. A.R.Kulkarni

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