ザクセン=ザールフェルト時代(1680年 - 1735年)
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ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公エルンスト1世が1675年3月26日にゴータで死去すると、公国は1680年2月24日にエルンスト1世の息子7人の間で分割された。そのうち、ザクセン=ザールフェルトの領地は末子ヨハン・エルンスト4世が継承したが、公国は完全独立していなかった。おらず、公国の3行政区(ザールフェルト、グレーフェンタール(英語版)、プロブスツェラ(英語版))の行政はいずれもゴータ当局に依存した。Nexus Gothanusと呼ばれたこの状況はゴータがヨハン・エルンスト4世の長兄フリードリヒ1世の居城であったことが理由である。ザクセン=ザールフェルト公の居城は1680年から1735年までザールフェルトだった。 1699年にザクセン=コーブルク公アルブレヒト5世が後継者のないまま死去すると、ザクセン=マイニンゲン公ベルンハルト1世などとの間の継承争いがおこり、1735年まで決着しなかった。ザクセン=コーブルク公領の多くがザクセン=ザールフェルト公の与えられ、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国が成立した。ただし、ゾンネベルクとノイハウス・アム・レンヴェーク(英語版)地区はザクセン=マイニンゲンに与えられ、ゾンネフェルト地区はザクセン=ヒルトブルクハウゼンに与えられた。レムヒルト(英語版)地区の3分の1とテマール(英語版)地区の12分の5はザクセン=コーブルク領に残った。
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