ゲオルギ・キョセイヴァノフとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ゲオルギ・キョセイヴァノフの意味・解説 

ゲオルギ・キョセイヴァノフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/07 01:02 UTC 版)

ゲオルギ・キョセイヴァノフ(1939年)

ゲオルギ・イヴァノフ・キョセイヴァノフブルガリア語: Георги Иванов Кьосейванов, ラテン文字転写: Georgi Ivanov Kyoseivanov1884年1月19日 - 1960年7月27日)は、ブルガリアの軍人、外交官。外務相、首相(1935年11月23日 - 1940年2月15日)を歴任。

経歴 

ペシテラ出身。1905年、パリ大学法学部で教育を受ける。ブルガリア帰国後、外務省に入省。1912年からローマ、1913年~1915年、イスタンブール、1918年~1920年、ベルン、1920年からベルリン、1923年~1924年、パリで勤務。1924年から駐ブカレスト外交使節団団長。1929年~1931年、駐アテネ、1931年、駐ブカレスト、1932年~1934年、駐ベオグラード全権大使。

クーデター後、1934年5月19日にソフィアに召還。アンドレイ・トシェフ政権において、1934年4月21日から外務・信仰相。1935年11月23日、ボリス3世にのみ従属する無党派政府の議長に任命されると同時に、外務相を兼任。首相在任時、隣国との友好関係確立に努め、1937年、ユーゴスラビアと永遠の友好条約、1938年、バルカン諸国とソルン協定を締結した。ソ連とは、航空路開設協定(1939年12月11日)、貿易航行協定(1940年1月5日)等を締結した。

1940年2月15日、ボグダン・フィロフと交代し、駐ベルン大使に任命。第二次世界大戦中、駐スイス大使を務めた。1944年10月1日に罷免されたが、ブルガリアには帰国しなかった。

1960年に亡命先のスイスで死去。


公職
先代
アンドレイ・トシェフ
ブルガリア王国
閣僚評議会議長

第38代:1935 - 1940
次代
ボグダン・フィロフ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ゲオルギ・キョセイヴァノフ」の関連用語

ゲオルギ・キョセイヴァノフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ゲオルギ・キョセイヴァノフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのゲオルギ・キョセイヴァノフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS