クーネオの包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/09 08:02 UTC 版)
「マドンナ・デル・オルモの戦い」の記事における「クーネオの包囲」の解説
プロイセン王フリードリヒ2世がボヘミアに進軍していたため、サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世はクーネオ守備軍の大半を自領から出さなければならなかった。そのため、彼は自軍2万5千をサルッツォに待機させた。クーネオ駐留軍の指揮にはカンポサントの戦いで活躍したカール・ジークムント・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ロイトゥルム・フォン・エルティンゲン(ドイツ語版)将軍を任命、また民兵隊を召集してゲリラ活動にあたらせた。 クーネオの包囲は9月12日から13日にかけての夜にはじまった。コンティ公の計画では軍を三手に分け、1つを包囲に、1つをカルロ・エマヌエーレ3世の軍勢への対抗に、さらにもう1つを巡邏に使った。ロイトゥルムは大砲が敵塹壕に照準しやすいよう照明を使ったり、突撃隊をたびたび出したりしたが、それでも28日にはコンティ公の軍勢が要塞に迫ってきた。カルロ・エマヌエーレ3世はここで行動を決めた。
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