カーウィラとは? わかりやすく解説

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カーウィラ

(カーウィラ公 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/20 19:02 UTC 版)

カーウィラ
กาวิละ
第3代ラムパーン領侯
チエンマイ領及びラーンナー国王
在位 ラムプーン:
1774年 - 1782年
チエンマイ:
1782年 - 1816年11月21日
戴冠 ラムプーン:
1774年
チエンマイ:
1782年
家系 チェットトン王家
出生 (1742-10-31) 1742年10月31日
チエンマイラムプーン
死亡 (1816-11-21) 1816年11月21日(74歳没)
チエンマイチエンマイ
チャーイケーオ
チャンター
配偶者 ノーチャー
宗教 上座部仏教
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カーウィラタイ語: กาวิละ北タイ語1742年1816年)は、タイ王国チエンマイ県にあったチエンマイ王朝(復興ラーンナー王朝)の王である。

伝記

ビルマ時代

ビルマがランナーを支配していた末期1770年、チェンマイ貴族であるチャーバーン伯は、チェンマイ領主のビルマ人のポーマユグワン卿と口論を起こした。チャーバーン伯は力が弱く、対抗できなかったため、別のビルマ人指揮官であるポースパラーのもとに逃れました。ポースパラーとポーマユグワンは仲が悪かったため、ポースパラーはチャーバーン伯を保護した。

その後1771年には、シャム国王タークシンはランナーからビルマ軍を追放するため北部に進軍したが、チェンマイをわずか9日間包囲しただけで撤退した。1773年には、ポースパラーはチェンセーンからチェンマイに戻り、チャーバーン伯を連れて帰還した。ポースパラーは城壁の外に陣を張り、チャーバーン伯をポーマユグワンに引き渡すことを拒否した。ポーマユグワンは何もできずのでビルマ本国に訴え出るほかず。

1774年には、タークシン王は二人の兄弟であるチャックリー公爵とスラシー公爵にチェンマイ攻略を命じた。ポースパラーはシャム軍が進軍してくることを知ると、チャーバーン伯とランパーン領主の長男カーウィラに命じ、合わせて約ー千人の兵士を前線としてランパーンに派遣して、自身も約1万の大軍を率いて後続軍として合流する計画を立てた。その間、ビルマはチャーバーン伯とカーウィラを首都アヴァに送って裁きを受けさせるよう命じたが、ポースパラーは両者が戦争に従事していることを理由に引き渡しを拒否した。ポーマユグワン卿はこれに対抗できず、ランパーンにいる部下に命じてランパーン領主本人、カーウィラの妻と子供たちを拘束して、首都アヴァに人質として送るよう指示した。

チャーバーン伯はホート郡に駐屯している間にこの知らせを知り、カーウィラに使者を送りた。そして、ポースパラーに対し自ら先遣隊として道を偵察する任務を申し出た。その後チャーバーン伯の甥ゴーンゲーウが率いる部隊が、リー郡に駐屯していたタークシン王の小規模な部隊に密かに謁見した。一方、カーウィラは父親と家族がアヴァに送られたことを知ると、ランパーンのビルマ軍を攻撃し、ビルマ兵を討ち取りした。その後速やかに部下を派遣し家族を奪還することに成功した。

シャム時代

二人の公爵の軍がランパーンに到着すると、カーウィラは食料と兵士を携えてシャム軍に合流した。一方、ビルマ大軍を率いて進軍中だったポースパラーはカーウィラがシャムに寝返ったことを耳にすると、軍を引き返しチェンマイで守備を固めました。しかし、シャム軍の攻撃に耐えられず、チェンセーンへと逃亡した。タークシン王はチャーバーン伯をチエンマイ領総督に任命し、カーウィラをラムパーン領侯に任命した。1780年、カーウィラとチャーバーン両者は村人を略奪していたシャムの偵察部隊を殺害した。生き延びたものたちはタークシン王のもとへ逃げ込み、これを訴えした。その結果、タークシン王はカーウィラに首都トンブリーへの召喚命令を出したが、カーウィラはこの命令を3度にわたり拒否した。

1782年にはカーウィラとチャーバーン伯はついにトンブリーに召喚され、タークシン王の命令で鞭打ちの刑を受け、投獄されました。またカーウィラは召喚命令に従わなかった罰として耳の縁を切り取られた。しかしカーウィラは自らの罪を償うためチェンセーンの攻略に志願した。チェンセーンの攻略に成功した後、カーウィラはトンブリーに戻した。その頃マハー・カサットスック大公がタークシン王から政権を奪い、チャクリー王朝の初代ラーマ1世として即位したばかりした。これにより、カーウィラはチエンマイ領侯に任命され、同年にトンブリーで病没したチャーバーン伯に代わりチェンマイを治めることになった。

子孫

カーウィラには5人の子息がいた。

  1. スリヤカート王子 …… 第9代チエンマイ領公の妃チャーマリーの父。
  2. カーウィローロットスリヤウォン王子 …… 第6代チエンマイ領大公
  3. マハーウォン王子
  4. カムサイ王女
  5. チャイセーナー王子

爵位

  • 1774年、ラムパーン領侯 (พระยานครลำปาง)
  • 1782年、チエンマイ領侯 (พระยาเชียงใหม่)
  • 1802年、チエンマイ領及びラーンナー国王 (พระบรมราชาธิบดี พระเจ้าเชียงใหม่)

参考文献

  • Ongsakul, Sarassawadee, History of Lan Na, trans. Chitraporn Tanratanakul, Chian Mai: Silkworm Books, Thai text 2001, English text 2005, ISBN 9749575849
  • The Chiang Mai Chronicle 2nd Edition, trans. David K. Wyatt and Aroonrut Wchienkeeo, Chinag Mai: Silkworm Books, 1998, ISBN 9747100622

関連項目

先代
チャーバーン
チエンマイ領主
1782年-1816年
次代
タンマランカー
先代
チャーイケーオ
ラムパーン領主
1774年-1782年
次代
カムソーム




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