チャーイケーオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/24 13:56 UTC 版)
チャーイケーオ ชายแก้ว |
|
---|---|
第2代ラムパーン領公 | |
戴冠 | 1759年 |
退位 | 1774年 |
首相 | 1774年 |
別名 | シンハラーチャターニー公 (เจ้าฟ้าสิงหราชธานี) |
出生 | 1742年 |
死亡 | 1789年1月5日 |
シンハラーチャターニー公 チャーイケーオ はラムパーン領公。カーウィラの父である。
伝記
即位したときはいわゆる、ラムパーンなどの地域は混乱期であり、チャーイケーオは国主の座をめぐって暗殺されそうになり、家族共々、友好国であったプレーに逃げ込んだ。チャーイケーオはプレーで250人の兵を組織すると、ラムパーンに攻め込んだが失敗し、弟を一人失った。
その後、この混乱を制す為にビルマは軍を送りラムパーンを制圧、チャーイケーオを再び王位につけ、国主の座を簒奪しようとした者達を投獄・処刑した。1766年のビルマのアユタヤ攻略においてはチャーイケーオはビルマ側を支援、アユタヤの陥落に一役買った。
しかし、1774年息子のカーウィラがビルマから離反し、アユタヤ王朝の跡を継いだタークシンの元へつき、その元でシャムによりラムパーンの国主となり、チャーイケーオは実質、ラムパーンの国主ではなくなった。なお、チャーイケーオは後に、カーウィラによってビルマから救出された。
子孫
チャーイケーオには10人の子供が居た。
- カーウィラ王・・・第3代ランパーン領主、 初代チエンマイ領主
- カムソーム侯・・・第4代ランパーン領主
- タンマランカー侯・・・第2代チエンマイ領主
- ドゥワンティップ大公・・・第5代ランパーン領主
- シーアノーチャー令嬢・・・シャム副王スラシンハナートの正室。
- シーワンナー令嬢・・・幼少期に死亡
- ウッパラートムーラー伯・・・ランパーン領摂政伯
- カムファン侯・・・初代ラムプーン領主、 第3代チエンマイ領主
- シーブンタン令嬢
- ブンマームアン大公・・・第2代ラムプーン領主
すべての息子は「チャオチェットトン」つまり「七人の公子」と呼ばれるようになり、それがこの王家の呼び名である。
参考文献
- Ongsakul, Sarassawadee, History of Lan Na, trans. Chitraporn Tanratanakul, Chian Mai: Silkworm Books, Thai text 2001, English text 2005, ISBN 9749575849
- The Chiang Mai Chronicle 2nd Edition, trans. David K. Wyatt and Aroonrut Wchienkeeo, Chinag Mai: Silkworm Books, 1998, ISBN 9747100622
関連項目
|
|
固有名詞の分類
- チャーイケーオのページへのリンク