オルク・テムルの登場まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 04:43 UTC 版)
「オルク・テムル」の記事における「オルク・テムルの登場まで」の解説
1388年、クビライ家に敵対的なモンゴリア西北の諸部族はアリクブケ家のイェスデルを推戴してドルベン・オイラト(オイラト部族連合)を結成し、クビライ家の嫡統ウスハル・ハーンを弑逆してしまった。この弑逆事件によってモンゴルの諸部族は流散してしまったが、ハーンに直属する集団は太師カラジャン、太尉マルハザらによって率いられて残存した。 ハーン位を奪還したアリクブケ家及びドルベン・オイラトでも内部抗争が相継ぎ、親クビライ派のチョロース(ゴーハイ太尉、バトラ丞相)と親アリクブケ派のケレヌート(オゲチ・ハシハ、エセク)はオイラト部族連合の主導権を巡って抗争を続けた。その結果、オゲチ・ハシハとその擁立するクン・テムル・ハーンがチョロース部のバトラ丞相によって殺されるという事件が起こった。 これを好機と見た反オイラトの諸部族は太師マルハザを中心に結集し、モンゴル(ドチン・モンゴル)を再建した。この頃、クビライ家のオルジェイ・テムルはオイラトの覇権から逃れてティムール朝に亡命し、その弟と見られるハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジは殺されていたため、マルハザらはオゴデイ裔でアラシャー方面を根拠地とするオルク・テムルを推戴した。
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