ウォルスキの侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 15:37 UTC 版)
「ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「ウォルスキの侵攻」の解説
紀元前5世紀、どちらもサベリア語群の部族であるウォルスキとアエクイがラティウムに侵攻したが、これはサベリア語群の部族がアペニン山脈から平野部に移動する大きな流れの一環であった。ラティウム周辺部のいくつかの街が制圧されたようである。対するラティウム諸都市はローマを盟主として紀元前493年にカッシウス条約を結び、これに対抗した。古代の資料には、紀元前5世紀前半には毎年のようにウォルスキ、アエクイとの戦いが記録されている。有名な例としては、プレブス(平民)に対して圧迫的な姿勢を見せいためローマを追放された将軍ガイウス・マルキウス・コリオラヌス(en)が、ウォルスキ軍と共にローマに侵攻した例がある。この連年の戦争は、その多くが会戦という大規模なものではなく、比較的小規模な襲撃とそれに対する反撃であった。
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