ウォラテッラエの市民権剥奪法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 10:24 UTC 版)
「コルネリウス法」の記事における「ウォラテッラエの市民権剥奪法」の解説
エトルリアの諸都市はマリウスとキンナを支持して最後までスッラに抵抗し、最終的に紀元前79年になってウォラテッラエは降伏した。サッルスティウスによれば、多数の同盟市やラテン人がスッラによって市民権を取り消されているとされ、エトルリアだけでなく、スッラに抵抗したカンパニアやラティウムも含まれていたのではないかとする説もある。 市民権を剥奪された都市はラテン植民市へ格下げされたと考えられている。ただ、紀元前57年にキケロが「ウォラテッラエは我々と同じく市民権を有しており、しかもただの市民ではなく、最高の市民である」としていることなどから、この処置は結局実施されなかったのではないかという説もあり、紀元前70年に行われた内乱後初めてのケンススにおいてその地位が保全されたのではないかとも考えられている。 また、没収された領地の一部には退役兵が植民してきたが、ウォラテッラエは公有地(ager publicus)とされた残りの元領地を占有していたものと考えられている。
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