イーサー・ケレメチ
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イーサー・ケレメチ(ʿĪsa Kelemech、1218年 - 1307年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた西アジア出身のネストリウス派キリスト教徒。モンゴル帝国に仕えるキリスト教との代表的人物として歴代カアン(皇帝)に重用され、政治的にはアフマド・ファナーカティーらムスリム官僚と対立したことで知られる。
- ^ Kim2020,256/266頁
- ^ 『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑,「按公西域拂林人、祖不阿里、父不魯麻失。公剛明忠信、能自致身立節。於西域諸国語星暦医薬、無不研習」
- ^ 『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑,「有列辺阿荅者、以本俗教法受知。定宗薦其賢召、侍左右直言敢諫。為世祖所器」
- ^ a b c d e 『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑,「其所公起家為定宗近侍。中統間、掌西域星暦・医薬二司事。至元戊辰、兼広惠司。丁亥、拝秘書監。已丑、領崇福使。甲午、加翰林学士承旨兼修国史。大徳丁酉、遙授平章政事。丁未、封秦国公積階至金紫光禄大夫。今而有是命前後以功以言被賞資及卒葬。賜贈黄金為両者四百有奇白金七百有五十楮幣十五万水晶金玉器珠衣帽宝帯錦衣白馬不可勝」
- ^ 『元史』巻134列伝21愛薛伝,「愛薛、西域弗林人。通西域諸部語、工星暦・医薬。初事定宗、直言敢諫。時世祖在藩邸、器之」
- ^ 韓1982,93頁
- ^ 『牧庵集』巻2蒙克特穆爾祖考伊蘇追封秦国康恵公制,「尚書左丞蒙克特穆爾之祖考伊蘇。繄我髙后、于爾先人、聞為世之所賢、奏遣伻而将致。由渠既耄、辞不能徃、以汝克肖、代之而行。非家学有自而来、不父誉如是之力。春秋方富、初供奉乎東朝。夙夜惟勤、載徒征于西域。託椒房之親、以為傅父、居画室之館、以鞠帝姫」
- ^ 「蒙克特穆爾祖考伊蘇追封秦国康恵公制」でソルコクタニに仕えるようになったイーサーは「春秋方富(若く将来性がある)」と称されている。没年からの逆算に基づけばイーサーはこの時20歳であり、「春秋方富」 という形容に合致する (韓1982,102頁)
- ^ 宮2018,602-603頁
- ^ イーサーの妻について、『牧庵集』巻2「蒙克特穆爾祖考伊蘇追封秦国康恵公制」等では「克哷氏」、『雪楼集』巻4「故妻撤剌氏追封拂林王夫人制」では「撤剌氏」と表記する。「克哷」はケレイト部の転写であり(韓1982,95頁)、「撤剌」はアブラハムの妻に由来する洗礼名を転写したものとみられる(韓1982,98-99頁)。ソルコクタニはケレイト部出身の王女でキリスト教を信仰していたことで知られており、サラもソルコクタニゆかりの人物であると推測される(1982,104頁)。
- ^ 韓1982,104頁
- ^ 『牧庵集』巻2考崇福使阿実克岱追封秦国忠翊公制,「昔在憲宗、未登宸極、初因太子同生于其地、故即在軍、鈞鍚以是名。嘉与帝姫、共其傅毋。臣求愛遇于当世、人誰過諸。女采撫鞠於内庭、妻亦賜者。逮六飛之巡蜀、乗世伝而超燕。世祖異観、宗臣不劣。所欲則与之聚、為猷而必其成」
- ^ 韓1982,105頁
- ^ 宮2018,639頁
- ^ 『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑,「中統壬戌春、詔都城二月八日大建仏事、臨通衢結五采流蘇楼観、集教坊百伎、以法駕迎導。公進言曰『方今高麗新我国附、李壇復叛、淮海之壖刀斗、達旦天下疲弊、瘡痍未廖棄。此無益之費、非所以為社稷計也』。上嘉納之。是月、望上幸長春宮、欲因留宿。公趣入諫曰『国家調度方志兵困民罷陛下能安此乎』。上方食愕然尽、以賜公拊其背曰非卿不聞斯言促駕還。自是、日見親近、公亦無所隠」
- ^ 『元史』巻134列伝21愛薛伝,「中統四年、命掌西域星暦・医薬二司事、後改広恵司、仍命領之。世祖嘗詔都城大作仏事、集教坊妓楽、及儀仗以迎導。愛薛奏曰『高麗新附、山東初定、江南未下、天下疲弊、此無益之費、甚無謂也』。帝嘉納之。至元五年、従獵保定、日且久、乃従容於帝前語供給之民曰『得無妨爾耕乎』。帝為罷獵」
- ^ 『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑,「至元戊辰春、大蒐于保定之新安、日且久。公於上前語、供給之民、日得無妨尔耕乎。上即日罷。従幸上都新凉亭成大宴、諸王百官競起行酒。公進曰『此可飲乎』。上悟抱公膝上、啐其頂左手挽公髯、飲以酒碩。謂皇太子曰『有臣如此、朕何憂焉』」
- ^ 『元史』巻8世祖本紀5,「[至元十年春正月]戊午……改回回愛薛所立京師医薬院名広恵司」
- ^ 宮2018,784頁
- ^ 宮2018,335頁
- ^ 『元史』巻134列伝21愛薛伝,「至元十三年、丞相伯顔平江南還、姦臣以飛語讒之、愛薛叩頭諫、得解」
- ^ 宮2018,674-676頁
- ^ 宮2018,719-720頁
- ^ 宮2018,721-722頁
- ^ 宮2018,723-724頁
- ^ 『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑,「癸未夏四月、択可使西北諸王所者、以公嘗数使絶域、介丞相孛羅以行還。遇乱使介相失、公冒矢石出死地、両歳始達京師」
- ^ 宮2018,462頁
- ^ 宮2018,791頁
- ^ Pelliot 1914,639頁
- ^ 訳文は宮2018,791より引用
- ^ Pelliot 1914,640頁
- ^ 宮2018,655頁
- ^ 宮2018,343-344頁
- ^ 『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑,「癸未夏四月……以阿魯渾王所贈宝装束帯進、見令陳往復状。上大悦、顧廷臣嘆曰『孛羅生吾土食吾禄而安於彼、愛薛生於彼家於彼而忠於我。相去何遠耶』」
- ^ 韓1982,105頁
- ^ 『元史』巻134列伝21愛薛伝,「尋奉詔使西北宗王阿魯渾所。既還、拝平章政事、固辞。擢秘書監、領崇福使、遷翰林学士承旨、兼修国史」
- ^ 『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑,「拝平章政事、固辞、初上登万歳山、瞻望四郊、惻然纍纍欲遷之及将尽徙南城 居民実大都皆弗果。賜宿衛士廬舍禁殺胎天麌置西域星暦医薬之署、立広惠司、給在京疲癃残疾窮而無告者、皆以公言罷行之」
- ^ 『集史』テムル・カアン紀にはこの事件がいつ頃起こったか明記されていないが、「タムパが彗星を理由に祈祷した」との記述から、漢文史料で彗星を観測したと記される大徳元年2月27日よりほど遠くない時期に起こった事件であると考えられる(宮2018,351頁)
- ^ 宮2018,351頁
- ^ 『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑,「成宗即位、眷益隆賜腰輿出入。大徳癸卯、上弗豫政出闊闥。秋八月、京師地震、中宮召謂公曰『卿知天象、此非下民所致然耶』。公対曰『天地示警戒耳、民何与願熟慮之』。曰『卿早何不言』。公曰『臣奏事世祖及皇帝錐寝食、未嘗不召見。曠月日、不得一入侍言。何由達数年之間、災異日起公力陳弭変之道辞多、激切弗納」
- ^ 『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑,「丁未、上棄臣民、公時在秘府、有秘文非御覧不啓。中使奉内旨迫取、公属色拒之。今上皇帝、奉皇太后至自懐州悉誅奸党、迎立武宗。以公為忠爵賞特異方倚柄用。至大改元六月癸卯、薨于上都之私第、年八十二。三宮悼惜不已贈賻有加某年月日葬」
- ^ 『元史』巻134列伝21愛薛伝,「大徳元年、授平章政事。八年、京師地震、上弗豫。中宮召問『災異殆下民所致耶』。対曰『天地示警、民何与焉』。成宗崩、内旨索星暦秘文、愛薛厲色拒之。仁宗時、封秦国公。卒、追封太師・開府儀同三司・上柱国・拂林忠献王」
- ^ この人物のみ、『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑に名前があるが『元史』巻134列伝21愛薛伝には名が挙げられない(韓1982,108頁)。
- ^ 『雪楼集』巻5拂林忠献王神道碑,「計六男四壻三孫、皆為大官近侍。長男也里牙、光禄大夫・泰国公・崇福使・領司天台事。次腆哈、翰林学士承旨・資善大夫兼修国史。次黒斯、光禄卿。次闊里吉思太中大夫同知泉府院事。次魯哈、昭信校尉・提挙広惠司事。次咬難宿衛興聖宮。長壻、栄禄大夫・宣徽中政使納忽荅児。次、中順大夫同知崇福司事速刺哈。次、資徳大夫章佩院使月忽難。次、更直禁衛士黒黒長孫宝哥。次、宣哥。次、安童。皆直禁衛盛矣」
- ^ 『元史』巻134列伝21愛薛伝,「子五人。也里牙、秦国公・崇福使。腆合、翰林学士承旨。黒厮、光禄卿。闊里吉思、同知泉府院事。魯合、広恵司提挙」
- ^ 『元史』巻34文宗本紀3,「[至順元年秋七月]丁丑……故丞相鉄木迭児子将作使鎖住与其弟観音奴・姊夫太医使野理牙、坐怨望・造符録・祭北斗・咒咀、事覚、詔中書鞫之。事連前刑部尚書烏馬児・前御史大夫孛羅・上都留守馬児及野理牙姊阿納昔木思等、俱伏」
- ^ 韓1982,100頁
- ^ 韓1982,93-94頁
- ^ 韓1982,94頁
- ^ 韓1982,95頁
- ^ 韓1982,100頁
- 1 イーサー・ケレメチとは
- 2 イーサー・ケレメチの概要
- 3 参考文献
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