イルハン朝から元朝へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 18:43 UTC 版)
「バヤン (バアリン部)」の記事における「イルハン朝から元朝へ」の解説
諸史料の一致して伝えるところによると、バヤンはチンギス・カンに仕えたバアリン部出身の千人隊長、アラク・ノヤンの孫である。父ヒャウグタイは1253年に始まるフレグの西方遠征に従軍しており、バヤンも父とともにフレグの軍に従い、のちに若くしてイランに建設されたフレグ家のウルス(イルハン朝)の将軍となった。 その後、1264年に使者としてフレグ・ウルスからクビライの元に送られたとき、バヤンを接見したクビライは、その容貌がすばらしく才幹に優れていることを知り、そのまま引きとめて自身の部下とした。クビライはバヤンを、側近の中書右丞相アントンの妹と結婚させ、1265年にクビライの政府の中枢機関である中書省に置いて、アントンの次席の位である中書左丞相に任命した。
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