イエセ_(カルトリ王)とは? わかりやすく解説

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イエセ (カルトリ王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/15 05:20 UTC 版)

イエセ
იესე

カルトリ王
在位期間
1714年1716年
先代 カイホスログルジア語版
次代 ヴァフタング6世

カルトリ王
在位期間
1724年1727年
先代 ヴァフタング6世
次代 テイムラズ2世グルジア語版

在位期間
1721年1724年
先代 レヴァン
次代 マムカ

出生 1680年または1681年
トビリシ
死亡 1727年
トビリシ
王朝 バグラティオニ朝英語版
父親 レヴァン・バトニシヴィリグルジア語版
母親 ティナティングルジア語版
配偶者
親署
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イエセグルジア語: იესეグルジア語ラテン翻字: Iese1680年または1681年1727年)は、カルトリ王国の王(メペ英語版)である。1714年から1716年まで、また1724年から1727年まで同国を統治した。サファヴィー朝でのイスラム名はアリー・コリー・ハーンペルシア語: علی‌قلی‌خانペルシア語ラテン翻字: ʿAlī-Qolī Khān)、オスマン帝国でのイスラム名はムスタファ・パシャペルシア語: مصطفی پاشاペルシア語ラテン翻字: Mustafa Pasha)。

生涯

生い立ち

イエセは、カルトリ王ギオルギ11世グルジア語版の弟レヴァン・バトニシヴィリグルジア語版と、上級貴族アヴァリシヴィリ家グルジア語版の娘ティナティングルジア語版の子として生まれた[1]。イエセは父レヴァンに随伴してペルシアに渡り、サファヴィー朝の宮廷で育った。イエセはペルシアにおいてイスラム教に改宗し、「アリー・コリー・ハーン」の名を与えられた[2]

1705年から1714年まで、イエセはサファヴィー朝のシャー・スルターン・フサインに仕えた。イエセは最初に叔父であるカルトリ王ギオルギ11世グルジア語版の下で、次いでカルトリ王となった異母兄カイホスロ (カルトリ王)グルジア語版の下で、反乱を起こしたアフガンの軍勢と戦った。1708年、ギオルギ11世がペルシア南東部のケルマーン総督英語版に任命されたが、1709年にギオルギ11世が死去すると、その後任としてイエセが赴任となった。イエセは1708年から1709年にかけてケルマーンのナワーブ(太守)、1709年から1711年までケルマーンのベグラルベギ(長官)を務め、1711年から1714年まではペルシア軍砲兵部隊の司令官(トゥプチ=バシ英語版)を務めた。

最初の統治

1714年3月、イエセはイスラム教への改宗を拒否した兄ヴァフタング6世に代わり、ペルシアのシャー・スルターン・フサインによってカルトリ王国のワリ(副王、事実上の国王)に任命された[3]。即位後、イエセは兄ドメンティ4世グルジア語版のカトリコス総主教としての地位を承認した。また、同じくイスラム教徒であったカヘティ王ダヴィト2世グルジア語版と連合し、ダゲスタンレズギ人部族による襲撃グルジア語版に対抗した。しかしイエセは酒癖が悪く、貴族層の反発を受けて統治は混乱した。

幽閉と改宗

1716年6月、イエセは退位させられ、名目上イスラム教に改宗した兄ヴァフタング6世が王位に就いた。イエセはカヘティのテラヴィに逃れたが、ヴァフタング6世の息子で摂政を務めていたバカルグルジア語版王子に捕らえられ、トビリシに幽閉された。幽閉中にイエセはイスラム教を棄て、キリスト教に再改宗した。

1721年、イエセはヴァフタング6世の赦免を受け、ムフラニの所領を与えられるとともに、カルトリのムディヴァンベギグルジア語版(最高裁判官)に任命された。

1723年、サファヴィー朝のシャー・タフマースブ2世はカヘティ王コンスタンティネ2世グルジア語版にカルトリ王位を授与し、ヴァフタング6世を排除しようとした。このときイエセはヴァフタング6世の兄ヴァフタング6世の軍を離脱し、東ジョージアに侵攻していたオスマン帝国軍に帰順した。

二度目の統治

イエセは再びイスラム教に改宗し、今度はスンナ派を信奉してオスマン帝国から「ムスタファ・パシャ」の名で1724年にカルトリ王に任命された。しかしイエセは実際にはオスマン帝国の一官僚に過ぎず、カルトリの政府もオスマン帝国司令官の管理下に置かれた。1724年にジョージア人の反乱が起きたが鎮圧され、イエセはオスマン帝国に忠誠を誓った。

1727年にイエセが死去すると、オスマン帝国はカルトリに直接統治を敷き、アハルツィヘグルジア語版パシャであるイサク1世ジャケリグルジア語版をカルトリの総督に任命した。

家族

イエセは二度結婚し、最初の結婚は1712年、有力貴族エラスティ・オルベリアニグルジア語版の娘マリアムwikidataとであった。この婚姻は、先夫カイホスロ・アマレジビから強引に奪った婚姻として史料に見える[4] 。イエセとマリアムの間には、次の子供が生まれた。

2度目の結婚は1715年、カヘティ王エレクレ1世グルジア語版の娘エレネグルジア語版とであった。イエセとエレネの間には、6人の息子と2人の娘が生まれた。

  • レヴァン(フセイン=ベグ)
  • ダヴィト(fl. 1716年–1738年)
  • ニコロズ
  • イオアネ(1717年没)
  • ホレシャン(1754年没)
  • アナスタシア(1731年没)
  • テイムラズグルジア語版(1720年–1788年) - カトリコス総主教アントン1世グルジア語版

さらにイエセは複数の妾を持ち、子をもうけた。正妻マリアムおよびエレネとの子と合わせ、計11人の子を残した。

注釈

  1. ^ Cyrille Toumanoff. Les dynasties de la Caucasie chrétienne de l’Antiquité jusqu’au XIXe siècle. Tables généalogiques et chronologiques. — Rome, 1990. — P. 144.
  2. ^ Mikaberidze 2015, p. 362.
  3. ^ Rayfield, Donald (2013). Edge of Empires: A History of Georgia. Reaktion Books. p. 224. ISBN 9781780230702.
  4. ^ Dumin, S.V., ed (1996) (Russian). [Noble families of the Russian Empire. Volume 3: Princes]. Moscow: Linkominvest. p. 44 
  5. ^ (ロシア語) Grebelsky, P. Kh., Dumin, S. V., Lapin, V. V. (1993), Дворянские роды Российской империи (Noble families of Russian Empire), vol. 3, p. 50. IPK Vesti

参考文献

外部リンク




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