イエセ (カルトリ王)
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イエセ იესე |
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カルトリ王
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先代 | カイホスロ |
次代 | ヴァフタング6世 |
カルトリ王
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先代 | ヴァフタング6世 |
次代 | テイムラズ2世 |
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先代 | レヴァン |
次代 | マムカ |
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出生 | 1680年または1681年 トビリシ |
死亡 | 1727年 トビリシ |
王朝 | バグラティオニ朝 |
父親 | レヴァン・バトニシヴィリ |
母親 | ティナティン |
配偶者 |
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親署 | ![]() |
イエセ(グルジア語: იესე、グルジア語ラテン翻字: Iese、1680年または1681年 – 1727年)は、カルトリ王国の王(メペ)である。1714年から1716年まで、また1724年から1727年まで同国を統治した。サファヴィー朝でのイスラム名はアリー・コリー・ハーン(ペルシア語: علیقلیخان、ペルシア語ラテン翻字: ʿAlī-Qolī Khān)、オスマン帝国でのイスラム名はムスタファ・パシャ(ペルシア語: مصطفی پاشا、ペルシア語ラテン翻字: Mustafa Pasha)。
生涯
生い立ち
イエセは、カルトリ王ギオルギ11世の弟レヴァン・バトニシヴィリと、上級貴族アヴァリシヴィリ家の娘ティナティンの子として生まれた[1]。イエセは父レヴァンに随伴してペルシアに渡り、サファヴィー朝の宮廷で育った。イエセはペルシアにおいてイスラム教に改宗し、「アリー・コリー・ハーン」の名を与えられた[2]。
1705年から1714年まで、イエセはサファヴィー朝のシャー・スルターン・フサインに仕えた。イエセは最初に叔父であるカルトリ王ギオルギ11世の下で、次いでカルトリ王となった異母兄カイホスロ (カルトリ王)の下で、反乱を起こしたアフガンの軍勢と戦った。1708年、ギオルギ11世がペルシア南東部のケルマーン総督に任命されたが、1709年にギオルギ11世が死去すると、その後任としてイエセが赴任となった。イエセは1708年から1709年にかけてケルマーンのナワーブ(太守)、1709年から1711年までケルマーンのベグラルベギ(長官)を務め、1711年から1714年まではペルシア軍砲兵部隊の司令官(トゥプチ=バシ)を務めた。
最初の統治
1714年3月、イエセはイスラム教への改宗を拒否した兄ヴァフタング6世に代わり、ペルシアのシャー・スルターン・フサインによってカルトリ王国のワリ(副王、事実上の国王)に任命された[3]。即位後、イエセは兄ドメンティ4世のカトリコス総主教としての地位を承認した。また、同じくイスラム教徒であったカヘティ王ダヴィト2世と連合し、ダゲスタンのレズギ人部族による襲撃に対抗した。しかしイエセは酒癖が悪く、貴族層の反発を受けて統治は混乱した。
幽閉と改宗
1716年6月、イエセは退位させられ、名目上イスラム教に改宗した兄ヴァフタング6世が王位に就いた。イエセはカヘティのテラヴィに逃れたが、ヴァフタング6世の息子で摂政を務めていたバカル王子に捕らえられ、トビリシに幽閉された。幽閉中にイエセはイスラム教を棄て、キリスト教に再改宗した。
1721年、イエセはヴァフタング6世の赦免を受け、ムフラニの所領を与えられるとともに、カルトリのムディヴァンベギ(最高裁判官)に任命された。
1723年、サファヴィー朝のシャー・タフマースブ2世はカヘティ王コンスタンティネ2世にカルトリ王位を授与し、ヴァフタング6世を排除しようとした。このときイエセはヴァフタング6世の兄ヴァフタング6世の軍を離脱し、東ジョージアに侵攻していたオスマン帝国軍に帰順した。
二度目の統治
イエセは再びイスラム教に改宗し、今度はスンナ派を信奉してオスマン帝国から「ムスタファ・パシャ」の名で1724年にカルトリ王に任命された。しかしイエセは実際にはオスマン帝国の一官僚に過ぎず、カルトリの政府もオスマン帝国司令官の管理下に置かれた。1724年にジョージア人の反乱が起きたが鎮圧され、イエセはオスマン帝国に忠誠を誓った。
1727年にイエセが死去すると、オスマン帝国はカルトリに直接統治を敷き、アハルツィヘのパシャであるイサク1世ジャケリをカルトリの総督に任命した。
家族
イエセは二度結婚し、最初の結婚は1712年、有力貴族エラスティ・オルベリアニの娘マリアムとであった。この婚姻は、先夫カイホスロ・アマレジビから強引に奪った婚姻として史料に見える[4] 。イエセとマリアムの間には、次の子供が生まれた。
- アルチル(アブドゥラ=ベグ)
2度目の結婚は1715年、カヘティ王エレクレ1世の娘エレネとであった。イエセとエレネの間には、6人の息子と2人の娘が生まれた。
- レヴァン(フセイン=ベグ)
- ダヴィト(fl. 1716年–1738年)
- ニコロズ
- イオアネ(1717年没)
- ホレシャン(1754年没)
- アナスタシア(1731年没)
- テイムラズ(1720年–1788年) - カトリコス総主教アントン1世
さらにイエセは複数の妾を持ち、子をもうけた。正妻マリアムおよびエレネとの子と合わせ、計11人の子を残した。
- アレクサンドレ(イサク=ベグ) - ロシア帝国将軍ピョートル・バグラチオンの祖父[5]
注釈
- ^ Cyrille Toumanoff. Les dynasties de la Caucasie chrétienne de l’Antiquité jusqu’au XIXe siècle. Tables généalogiques et chronologiques. — Rome, 1990. — P. 144.
- ^ Mikaberidze 2015, p. 362.
- ^ Rayfield, Donald (2013). Edge of Empires: A History of Georgia. Reaktion Books. p. 224. ISBN 9781780230702.
- ^ Dumin, S.V., ed (1996) (Russian). [Noble families of the Russian Empire. Volume 3: Princes]. Moscow: Linkominvest. p. 44
- ^ Grebelsky, P. Kh., Dumin, S. V., Lapin, V. V. (1993), Дворянские роды Российской империи (Noble families of Russian Empire), vol. 3, p. 50. IPK Vesti
参考文献
- Marie-Félicité Brosset, Histoire de la Géorgie, tome II : Histoire moderne de la Géorgie, réédition Adamant Media Corporation ISBN 0543944808, « Chronique de Sekhnia Tchkeidzé », p. 7-54.
- Toumanoff, Cyril (1990). Les dynasties de la Caucasie chrétienne de l'Antiquité jusqu'au XIXe siècle. Tables généalogiques et chronologiques. Rome.
外部リンク
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