レヴァン (ムフラニ公)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/06 09:46 UTC 版)
レヴァン ლევან |
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ムフラニ公
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先代 | エレクレ2世 |
次代 | イエセ2世 |
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出生 | 1670年 |
死亡 | 1739年5月14日 |
家名 | ムフラニ家 |
父親 | パプナ |
母親 | タマル・アバシゼ |
配偶者 | エレネ |
ムフラニ公レヴァン(グルジア語: ლევან მუხრანბატონი、グルジア語ラテン翻字: Levan Mukhranbatoni、1670年 – 1739年5月14日)は、カルトリ王国のタヴァディ(貴族)。バグラティオニ王家の分家であるムフラニ家の出身であった。レヴァンは1719年から1721年までムフラニのバトニ(公)であった。またレヴァンは、職権により内カルトリのサルダリ(司令官)を兼ね、カルトリ宮廷のムサフルトゥフツェシ(宮内長官)でもあった。
生涯
レヴァンはムフラニ公パプナとイメレティの貴族レヴァン・アバシゼの娘タマルの一人息子であった。1719年、カルトリの摂政であるバカル王太子は、レヴァンの叔父であるムフラニ公エレクレの目を潰し、追放した[1]。これによりレヴァンに、ムフラニ公の地位と領地が与えられた。しかしながら1721年、今度はレヴァンは追放された。これは、カルトリ王ヴァフタング6世が、和解した自身の兄弟イエセにムフラニ公領を与えたためであった。レヴァンはロシア帝国に亡命したが、1728年に帰国した[2][3]。
家族
レヴァンはエレネという女性と結婚し、9人の息子をもうけた[2]。
- パプナ(1719年 – 1740年)
- レヴァン(1719年 – ?)
- スヴィモン(1726年 – 1785年) - ムフラニ公
- イオアネ(1727年 – 1793年)
- クリステポレ(fl. 1727 – c. 1736) - ツィルカニ大主教
- イリア(1728年 – ?)
- エディシェル(1734年 – ?)
- マムカ
- ギオルギ(? – 1788年没)
脚注
- ^ ბაგრატიონები : სამეცნიერო და კულტურული მემკვიდრეობა, თბილისი: ნეოსტუდია, 2003, ISBN 99928-0-623-0
- ^ a b Metreveli, Roin, ed. (2003). ბაგრატიონები. სამეცნიერო და კულტურული მემკვიდრეობა [Scientific and Cultural Heritage of the Bagrationis] (ジョージア語、英語). Tbilisi: Neostudia. p. Table 8. ISBN 99928-0-623-0.
- ^ Bagrationi, Vakhushti (1976). Nakashidze, N.T.. ed (Russian). [History of the Kingdom of Georgia]. Tbilisi: Metsniereba. p. 59. http://dspace.nplg.gov.ge/bitstream/1234/3067/1/Istoria_Carstva_Gruzinskogo.pdf
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