マムカ (ムフラニ公)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/15 05:20 UTC 版)
マムカ მამუკა |
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先代 | イエセ2世 |
次代 | コンスタンティネ3世 |
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死亡 | 1751年 |
家名 | ムフラニ家 |
父親 | エレクレ2世 |
ムフラニ公マムカ(グルジア語: მამუკა მუხრანბატონი、グルジア語ラテン翻字: Mamuka Mukhranbatoni、? – 1751年)は、カルトリ王国のバグラティオニ王家ムフラニ家の家長である。マムカはムフラニのバトニ(公)であり、1730年頃から1735年まで内カルトリのサルダリ(司令官)を兼任した。マムカはナーディル・シャー治下のペルシアに対する反乱に参加した後、ロシア帝国へ亡命して軍歴を重ねた。ペルシアにおいてマムカはムハンマド=ベグ(ペルシア語: محمد بیک、ペルシア語ラテン翻字: Mohammad Beyk)と呼ばれ、ロシアではマムカ・ダヴィドフ(ロシア語: Мамука Давыдов、ロシア語ラテン翻字: Mamuka Davydov)として知られた[1]。
生涯
マムカはムフラニ公エレクレ2世の子である。マムカは1730年[1][2]または1734年[3]にムフラニ家の家長となった。当時、カルトリ王国は動乱の中にあり、オスマン帝国軍に占領されていた。ペルシアが東コーカサスで優勢となると、ジョージアの貴族たちは台頭する地域大国への対応をめぐって分裂した。マムカはギヴィ・アミラフヴァリ、クサニ公シャンシェ、ヴァフシティ・アバシゼらとともにペルシアの覇権に対抗した。しかしマムカは捕虜となり、1735年にアフガン人との戦闘に従軍させられた。脱出に成功したマムカはロシア帝国へ逃れ、自らの家系がダビデ王の子孫であると称していたことから、「ダヴィドフ」という姓を採用した。
1738年、マムカらジョージアの亡命貴族たちはロシア軍に仕官し、ジョージア軽騎兵中隊を編成した。この部隊はのちに連隊へ改編され、マムカは初代司令官に任じられ、大尉に昇進した。マムカは現在のウクライナにあたる地に領地を与えられた。マムカは1735年から1739年の露土戦争でオスマン帝国軍と戦い、1741年に退役した[1]。
マムカはイメレティ王ギオルギ7世の娘と結婚したが、子は記録されていない[2]。
脚注
- ^ a b c Dumin, S.V., ed (1996) (Russian). [Noble families of the Russian Empire. Volume 3: Princes]. Moscow: Linkominvest. p. 285
- ^ a b Metreveli, Roin, ed (2003) (Georgian, English). ბაგრატიონები. სამეცნიერო და კულტურული მემკვიდრეობა [Scientific and Cultural Heritage of the Bagrationis]. Tbilisi: Neostudia. p. Table 8. ISBN 99928-0-623-0
- ^ Ferrand, Jacques (1983). Familles princières de Géorgie: essai de reconstitution généalogique (1880-1983) de 21 familles reconnues princières par l'Empire de Russie. Montreuil: J. Ferrand. p. 20
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