アルザス家(エルザス家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 04:56 UTC 版)
「エティション家」の記事における「アルザス家(エルザス家)」の解説
エティション家の支配下で、アルザスはノルトガウ(en:Nordgau)とズントガウ(en:Sundgau)に二分されたが、双方がエティション家の元で強固に結び付けられており、エティション家の嫡流はアルザス家(エルザス家)と呼ばれた。534年ごろに、現在のスイス北部のバーゼルとジュラに進出した。 その一方、アルザス家がカロリング家と対立関係にあったか否かという問題が議論されているが、協調関係と対立関係が頻繁に変化したと考えるのが自然である。カロリング家のカール・マルテルがアレマン地方に侵攻した際はアルザス家は反抗しているが、カール・マルテル死後の742年にアレマン公テウデバルトがアルザスに逆侵攻した際にはピピン3世(カール・マルテルの子)と同盟している。なお、このときに、当主の公爵リウトフリト(en:Liutfrid, Duke of Alsace)はおそらく戦死した。
※この「アルザス家(エルザス家)」の解説は、「エティション家」の解説の一部です。
「アルザス家(エルザス家)」を含む「エティション家」の記事については、「エティション家」の概要を参照ください。
- アルザス家のページへのリンク