エミール・ベルナール (画家)とは? わかりやすく解説

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エミール・ベルナール (画家)

(Émile Bernard から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/27 15:56 UTC 版)

エミール・ベルナール
Émile Bernard
ポール・セリュジエによる肖像画
誕生日 1868年4月28日
出生地 フランス帝国リール
死没年 (1941-04-16) 1941年4月16日(72歳没)
死没地 フランス国パリ
国籍 フランス
運動・動向 ポスト印象派綜合主義クロワゾニスムポン=タヴァン派
芸術分野 画家
後援者 アントワーヌ・ド・ラ・ロシュフコー、アンドリース・ボンゲル、アンブロワーズ・ヴォラール
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エミール・ベルナールÉmile Bernard1868年4月28日 - 1941年4月16日)は、フランスポスト印象派画家

概要

トゥールーズ=ロートレックが描いたベルナール(1886年)。

エミール・ベルナールは、1868年、フランスのリールで生まれた。父は繊維業者であった。10歳の時(1878年)、一家はパリに移った。1884年、フェルナン・コルモンの画塾に入り、ここでルイ・アンクタンアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックと出会った。

1886年にコルモンのアトリエを追われ、ベルナールはパリを去ってノルマンディーブルターニュ半島を歩いて旅した。コンカルノーエミール・シェフネッケルと出会い、彼にポール・ゴーギャンへの紹介状をもらってポン=タヴァンに向かったが、この時はゴーギャンとほとんど話をする機会がなかった。

1886年から1887年にかけての冬、パリでフィンセント・ファン・ゴッホと出会った。この頃、ベルナールは点描による絵を制作している。1887年の春、再びノルマンディーとブルターニュ半島に向かい、サン=ブリアック=シュル=メールで2か月間滞在した後、ポン=タヴァンを訪れた。この時、ゴーギャンやシャルル・ラヴァルはカリブ海のマルティニークに出かけていた。ベルナールは、点描を捨て、ルイ・アンクタンとともにクロワゾニスムを発展させていった。

1888年8月、ベルナールはポン=タヴァンに戻ったゴーギャンと本格的な出会いを果たした。これ以後、2人は「総合主義」(サンテティスム)を作り上げていった。同年、総合主義の代表作「草地のブルターニュの女たち」を制作。1889年、ポン=タヴァンの画家たちのグループはパリのカフェ・ヴォルピニで展覧会を開いた。

1891年、ベルナールとゴーギャンとの間で諍いがあり、2人は絶交に至った。

1893年以降、パトロンのラ=ロシュフコー(en) の支援を受けながら、イタリアエジプトスペインなど諸国を転々とした。1904年帰国し、エクス=アン=プロヴァンスポール・セザンヌと出会った。

晩年期には、ミケランジェロなどの影響を受け、アカデミックな画風に従うようになった。

1941年(当時72歳)、パリで死去した。

作品

参考文献

文学

  • Fred Leeman, Émile Bernard (1868 - 1941), Citadelles & Mazenod éditeurs; Wildenstein Institute Publications, 2013, 495 p. (ISBN 9782850885716)

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