藤原実宗
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琵琶の秘曲伝授に関わる
実宗が藤原師長の弟子として琵琶の秘曲伝授を受けたことは『文机談』にも見えるが、実宗の日記『六条入道内大臣殿御記』[6]によると、建久3年(1192年)6月27日、藤原師長から啄木を伝授された時の様子が詳しく記されている。さらに実宗自身が師として建久5年(1194年)3月1日には守貞親王に石上流泉を[7]、正治2年(1200年)3月14日には同じく守貞親王に啄木を伝授したことが記されている[8]。
ただし、後鳥羽院が自ら琵琶を学ぼうとして琵琶の御師を選ぼうとした際に、実宗と藤原兼実が候補に挙げられて兼実が政治的に失脚したことで実宗が優位となっていたが、院の母である七条院の従兄弟で同じ師長の弟子であった藤原定輔が涙ながらに懇願したために定輔が選ばれた。外戚出身で院近臣の定輔が選ばれたことを知った実宗は憤りの余り「いまより後は家中に琵琶をとり入るべからず」と宣言したが[9]、結局は実宗本人が琵琶を絶つことが出来ず、儀式や行事の際には定輔と実宗(あるいは公経)が交替で琵琶の奏者を務めている[10]。
西園寺家はこののち琵琶秘曲伝授を代々受け継いでいくことになるが、その基礎を実宗が固めたということができる。
『千載和歌集』初出歌人
実宗は父公通と同じく『千載和歌集』が勅撰集初出であり、第16巻上に作者名「権中納言実宗」として次の歌が選ばれている。
第1047番
- 播磨がた須磨の晴れ間に見わたせば浪も雲居のものにぞありける
御子左家と姻戚関係に
実宗の女子の一人は藤原定家に嫁して後堀河院民部卿典侍、香、為家らを生んでいる。この結婚が家格に差のある婚姻であるように論じられることがある[11]。
官歴
- 久安4年(1148年)正月7日:従五位下
- 久寿2年(1155年)11月12日:従五位上
- 保元2年(1157年)正月24日:侍従
- 保元3年(1158年)8月10日:右近衛少将
- 保元4年(1159年)正月3日:正五位下
- 保元4年(1159年)正月26日:備後介
- 永暦2年(1161年)正月5日:従四位下
- 応保元年(1161年)10月19日:右近衛中将
- 応保3年(1163年)正月5日:従四位上
- 応保3年(1163年)正月21日:伊予権介
- 永万元年(1165年)7月25日:正四位下
- 仁安3年(1168年)正月11日:讃岐介
- 嘉応2年12月30日(1171年2月):蔵人頭
- 安元2年12月5日(1177年1月):参議
- 安元3年(1177年)正月24日:備前権守
- 治暦元年12月17日(1178年1月):従三位
- 治暦3年(1179年)9月5日:正三位
- 養和2年(1182年)3月8日:備後権守
- 寿永2年(1183年)正月22日:権中納言
- 元暦元年(1184年)7月24日:従二位
- 文治元年12月25日(1186年1月)正二位
- 文治5年(1189年)7月10日:権大納言
- 建久2年(1191年)3月28日:大納言
- 建久9年(1198年)4月23日:大嘗祭検校
- 元久2年11月24日(1206年1月):内大臣
- 建永元年(1206年)11月27日:出家
- ^ 父・公通が権中納言を辞しての申任である。
- ^ 実宗の復任の日付からすると公通の薨去は『玉葉』にある通り4月ということになる。
- ^ 『明月記』元久2年6月17日の条。しかし通資は任内大臣を願い出たとたんに病になってしまった。
- ^ 『明月記』元久2年6月19日の条。
- ^ 前掲書。
- ^ 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』、32ー33頁。
- ^ 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』、65頁。
- ^ 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』、65ー66頁。
- ^ 『文机談』巻第四、101-104頁。および『冷泉相国記』建長4年4月21日条。
- ^ 豊永聡美「二条定輔考」(初出:『東京音楽大学研究紀要』15(1991年)/改題所収:「藤原定輔」豊永『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館、2006年) ISBN 4-642-02860-9 P229-252)
- ^ 村山修一、『藤原定家』、278ー288頁。ただし、実宗の時代にはまだ「西園寺家」は成立していないのである。
- ^ 『公卿補任』
- ^ 『尊卑分脈』
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