米良治彦 来歴・人物

米良治彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/23 02:40 UTC 版)

来歴・人物

母方の生家、宮崎県で出生。父親の仕事の関係上、転勤が多かった為、幼少期を大阪府吹田市宮崎市東京都で過ごしながら、5歳でクラシックギターを覚え、8歳の時に初めてエレキギターに触れる。

10歳の時に初めてジミ・ヘンドリックスの楽曲を聴いて、ロックミュージックに目覚める事となり、それに伴って自分自身で作詞・作曲を開始する。

14歳の時、自身の組んでいたバンドでとあるコンテストに出場した際に渋谷ジァン・ジァン当時の事務所からのスカウトがきっかけで、渋谷ジァン・ジァンや新宿ルイードなどのライブハウスへの出演が増える事となった。

同時期より、ギタリストとしてライブでのサポート活動や、スタジオミュージシャンの仕事も開始する。

1972年 15歳で初めて渋谷JAN JANで兄と共にlive出演した後、お茶の水で知り合った同世代の音楽仲間とMARIAを結成する。当時まだ日本には少ないHard Rock bandだった。後にお茶の水日仏会館で数bandによるコンサートにフォークシンガーの高田渡氏等と出演する。米良はbandを離れ、横浜や福生横田基地等の米軍キャンプ等での演奏を始める。

1973年 米良はアルバイトしていたお茶の水で出会ったJON KIMと共に(日本国内、沖縄及び東南アジア各所)を経験した後に、九州全土でライブハウスの専属バンド、いわゆるハコバンのメンバーとして演奏。九州各地を転々として音楽生活を行っていた。

1976年 19歳の時に観光ビザで単身渡米。その後、一時帰国した後に就労ビザ取得して21歳で再渡米。

テキサス州でEl Paso現地のTEXMEXのロックバンドに加入後、L.Aを初め全米のクラブ等で年間300本以上のステージをこなしていった。

1981年 日本に帰国後、チャーリー永谷&キャノンボールにギタリストとして加入。バンド加入から1年半を過ぎた頃、熊本で不慮の交通事故によりミュージシャン生命の危機に見舞われるが、約2年に及ぶ懸命のリハビリにより回復。

この頃、当時高校生だった永井利光川添智久らと宮崎市で知り合い、後に彼らと共にSKY BOYSというバンドを結成する。この3人でデモrecordingを行い数多くのliveを行うようになる。某レコード会社と契約寸前に3人で神奈川にて共同生活しながら音楽活動を行うが、川添智久が脱退し後にリンドバーグで活動する事になる。永井利光と米良治彦はband名をFACE THE FACEに変えてlive活動と共に数多くのサポートやrecordingに参加する。永井利光は氷室京介やGLAY等のドームツアーを行うようになり多忙となるが、日野市に所在していたrecording studio M's plotにてFACE THE FACEのアルバムrecording制作に力を注ぐ事になる。しかし、某レコード会社との契約が思うように進まず最終的に米良一人残り作品を作り上げるも、作品としてお蔵入りする事になる。

その後、前述の永井や海老原真二(喜多郎、他サポート)らとFACE THE FACEというバンドで活動した後に、中村俊彦(浜崎あゆみサポート)らとGet Crazyというバンドを立ち上げて、約7年もの期間にわたり、精力的なライブ活動を行っていった。

その間もパール兄弟松尾清憲をはじめ、様々なアーティストのライブにてギタリストとしてセッションやサポート活動を並行して行っている。

1995年にはテレビアニメマクロス7』劇中に登場するバンド、Fire Bomberの楽曲にギタリストとして参加。

1997年7月VAP Inc.よりソロアーティストとしてメジャーデビュー。1stシングル「Life goes on」をリリースする[1]

それと並行してToo muchというバンドを山田達也と新たに結成、レンジー・クロスビー、丸山史朗 (FLYING KIDS) らがそこに加わり、同バンドでのライブに重点を置いた活動を展開していった。

2002年7月、新たに結成したバンド、globaLUV名義での1stアルバム「sad guitar」を自主レーベルBeginnersよりリリース。

同作品は米良自身が一人でドラム以外の全楽器の演奏及びマスタリングまで全て手掛けたアルバムである。会場限定発売にもかかわらず、リリースから約半年で2000枚完売となっている。ライブ時についてはベーシストに当山恵美 (ex.rosy)、ドラマーに出原卓(ex.PRESENCE、ex.HURRY SCUARY)が参加している。同作のレコーディング時のドラマーは上述の山田達也が務めている。

2006年、UNEに参加。

2011年には左腕の神経障害に見舞われるも、リハビリに取り組み、機能回復を遂げる為にguitarを弾いている。

現在はソロ名義で、東京近郊にてオープンマイク形式のステージを中心に活動している[2][3][4]

2015年よりgroundbreakerというレーベルに所属。(現在は同レーベルより離れている)
同年8月、ソロ名義にて1stアルバム「FACE THE FACE」をリリース[5][6][7][8]。同作には、Fiddleに岸本一遙、Banjoに渡辺三郎、Pedal Steelに尾崎孝をはじめとした多数のミュージシャンがゲスト参加している。

2017年、ソロ活動と並行して、produce artistを発掘し始める。2ndアルバム「Atomic Sex Appeal -Get Crazy-」をリリース[9]

この作品は1990年に活動しrecordingしていたGET CRAZYの音源を編集した作品である。

2021年4月、JERRY名義にて配信シングル「やさしくなろう」をリリース。

2022年1月、singerのJUN - Merryを作曲及びproduceを行う。recordingから初めての動画撮影し、YouTubeにて配信開始。

https://www.youtube.com/watch?v=ZI5xJk55i60

JUNのアルバムは年内配信予定。




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