穴山満春 穴山満春の概要

穴山満春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:48 UTC 版)

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穴山満春
時代 室町時代前期
生誕 不明
死没 不明
別名 信秋、信元、四郎
官位 信濃守修理大夫
氏族 武田氏穴山氏
父母 父:武田信春、養父:穴山義武
兄弟 武田信満満春、下条信継、市部信久、吉田成春、観音寺遠大西堂、法弥陀仏、上杉禅秀正室、小笠原長基正室、
武田信繁室ら
継承者:信介
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略歴

穴山氏は南北朝時代に甲斐守護・武田信武の子である義武を祖とする一族[3]。系図史料によれば、義武は巨摩郡穴山(山梨県韮崎市穴山町)を本貫地と穴山氏を起こしたという[4]。甲斐の河内地方では南朝方の南部氏明徳4年(1392年)に陸奥国へ移住し、河内は穴山氏に与えられたという[5]

満春は甲斐守護・武田信春の子で、義武に実子がなかったため養子となったとされる[5]。延文期の義武と応永年間の満春には活動時期の開きが見られるが、満春の生年が応永以前で、義武が長命であった場合、整合性が成立することが指摘される[5]。修理大夫を称する。

応永23年(1416年)、上杉禅秀の乱において兄・信満は禅秀方に加担し、鎌倉公方足利持氏から追討を受け、応永24年(1417年)2月6日に天目山で戦死する[6]。『一蓮寺過去帳』には応永24年5月25日の年記で「由阿弥陀仏 修理大夫満春 号穴山」が記載されており、満春は信満と共に応永24年に死去したとされていた[6]。一方、佐藤八郎は『浅羽根本武田系図』など武田家系図類に満春が出家して高野山で僧籍に入り「空山」と号していたことを指摘し、満春は上杉禅秀の乱には加担していなかったとした[7][8]。さらに、佐藤は『一蓮寺過去帳』の記載は逆修供養の日付としている[9]

『鎌倉大草紙』によれば、信満の滅亡後に守護不在状態となった甲斐国では、足利持氏が甲斐の国人・逸見有直を支援し、京へ海老名三河守を派遣して有直の守護補任を要請した[10][1]。これに対し、鎌倉府と対立関係にあった室町幕府では、将軍足利義持が満春を還俗させ甲斐守護とし、武田信元と改めた[1]。信元の甲斐守護補任の時期は不明であるが、慶長18年(1613年)の『見聞軍抄』では将軍義教の持氏宛文書を根拠に応永29年(1422年)としている[1]。一方、『満済准后日記』応永24年(1417年6月8日条には欠字があるものの、「当守護」を信元、「先守護子息」を信満の子・信重に比定する解釈から、これを信元の守護補任記事とし、応永24年以前に守護に補任されたする説もある[8][1]

信元は逸見氏らと敵対していた信元の甥(信満の子)・武田信長や、信濃守護・小笠原政康の支援により甲斐へ入部する[8][1]。小笠原政康は生母が武田信春の娘で、信元の甥にあたる[11]。信元の甲斐入国は応永24年と推定されており、応永25年(1418年)推定2月21日の足利義持御内書や、『満済准后日記』応永25年2月15日条では信元が前年に甲斐入国をしていたことが確認される[12]

信元は甲斐入国後も幕府の支援を受け、応永24年10月28日・応永25年3月14日には将軍義持が小笠原政康に繰り返し信元支援を命じている[13]。『満済准后日記』応永25年2月15日条では甲斐の混乱状況を「地下一族蜂起」と評している[11]。信元が甲斐入国後に拠点とした地域は不明であるが、父祖以来の本拠である甲府盆地東部の東郡とする説があり、東郡北部から甲府北部・西郡には逸見氏が支配し、郡内には武田信長と結んだ加藤氏が支配し、北巨摩郡には小笠原氏が派遣した守護代跡部氏が入府していた構図が想定されている[14]

応永25年10月28日に政康は将軍義持から甲斐南部の河内地方にあたる南部(山梨県南巨摩郡南部町)・下山(南巨摩郡身延町下山)攻めの支援を命じられている[15]。また、このころ政康は守護代として跡部氏を甲斐へ派遣している[15]

信元の没年は不明で、応永28年(1421年)推定4月28日付の足利義持御内書では後任の甲斐守護に武田信重(三郎入道)が補任されていることから、これ以前に死去もしくは守護職を解任されたと考えられている[16]。武田氏はその後も守護代跡部氏との対立もあり、守護としての実権はなく国内の混乱は続いた。

一蓮寺過去帳』『甲斐国志』では満春と信元と別人として扱っているが、信元の名は系図類に見られないことから磯貝正義、佐藤八郎らにより同一人物説が提唱されている。


  1. ^ a b c d e f 渡邉(2007)、p.226
  2. ^ 磯貝正義『武田信重』
  3. ^ 平山(2011)、p.8
  4. ^ 平山(2011)、pp.8 - 9
  5. ^ a b c 平山(2011)、p.10
  6. ^ a b 平山(2011)、p.12
  7. ^ 『韮崎町誌』
  8. ^ a b c 秋山(1991)、p.22
  9. ^ 『韮崎町誌』
  10. ^ 秋山(1991)、pp.21 - 22
  11. ^ a b 秋山(1991)、pp.22 - 23
  12. ^ 渡邉(2007)、p.226 - 227
  13. ^ 秋山(1991)、p.23
  14. ^ 秋山(1991)、p.23 - 24
  15. ^ a b 渡邉(2007)、p.227
  16. ^ 渡邉(2007)、p.227 - 228


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