磐城炭鉱
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国策で入山採炭と合併
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)4月に政府は炭鉱整理要綱を策定した。これは低能率の炭鉱から高能率の炭鉱に労働力と資材を移動することで、労働力と資材の不足を克服して石炭の生産を増やすというものだった。政府指導の下で石炭統制会と石炭統制組合が直接その任に当ったが、その最初として磐城炭鉱と入山採炭の統合を発表した[27][28]。1944年(昭和19年)、当局の指示により磐城炭鉱は入山採炭(大倉財閥)と合併し常磐炭鉱株式会社になった[29]。表面は対等合併だが、株価評価では磐城炭鉱は入山採炭の半額で不利だった[30]。常磐炭鉱は、常磐ハワイアンセンターを経て、現スパリゾートハワイアンズ・常磐興産になった[31]。
参考文献
- 帝国興信所『財閥研究』第一輯、帝国興信所、1929年、241-245頁。
- 燃料協會「第十一同大會記事」『燃料協会誌』第13巻第6号、日本エネルギー学会、1934年、 804-812頁、 doi:10.3775/jie.13.6_804、 ISSN 0369-3775、 NAID 130004737229。
- 西野入愛一『浅野渋沢大川古河コンツェルン読本』春秋社、1937年、27-29頁。
- 勝田貞次、『投資相談1938年』千倉書房、1937年、270-276頁。
- 伊木正二「昭和10年~20年における石炭鉱業概要」『日本鑛業會誌』第76巻第869号、資源・素材学会、1960年、 822-827頁、 doi:10.2473/shigentosozai1953.76.869_822、 ISSN 0369-4194、 NAID 130007255409。
- 丸井博「常磐炭田における石炭生産力の展開」『地理学評論』第34巻第1号、日本地理学会、1961年、 22-36頁、 doi:10.4157/grj.34.22、 ISSN 0016-7444、 NAID 130003425055。
- 高橋邦雄, 湯沢昭, 新井洋一, 須田熈「地方における港湾の歴史的変遷と地域との係りに関する調査研究」『日本土木史研究発表会論文集』第1巻、土木学会、1981年、 99-105頁、 doi:10.11532/journalhs1981.1.99、 ISSN 0913-4107、 NAID 130004037950。
- 齋藤憲『稼ぐに追いつく貧乏なし : 浅野総一郎と浅野財閥』東洋経済新報社、1998年。ISBN 4492061061。NCID BA38856030。
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- 高柳友彦「産業化による資源利用の相克 : 戦前期常磐湯本温泉を事例に」『社会経済史学』第77巻第4号、社会経済史学会、2012年、 505-525頁、 doi:10.20624/sehs.77.4_505、 ISSN 0038-0113、 NAID 110009445319。
- いわき市図書館 いわきの炭鉱展関連年表 2021年3月7日閲覧
- 常磐炭田ネットワーク 常磐炭田史年表06 2021年3月7日閲覧
- 常磐炭田ネットワーク 常磐炭田史年表07 2021年3月7日閲覧
- 常磐炭田ネットワーク 磐城炭砿・入山採炭の合併に関する資料 2021年3月7日閲覧
- 常磐興産 沿革 2021年3月7日閲覧
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