木下寿徳 木下寿徳の概要

木下寿徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 15:56 UTC 版)

経歴

幕臣・木下守綱の次男として生まれる。木下家は代々御番医師を務め、木下道圓と名乗った。木下家は徳川家駿河移封に随伴し、寿徳は岡家を継ぎ、静岡藩士となった。

1869年明治2年)、開墾方頭・中條金之助(景昭)に率いられ牧之原に入植。荒れ地を開墾して茶園を栽培する傍ら、中條に剣術を学んだ。1872年(明治5年)、牧之原を離れ、東京道場を転々としながら修業を重ねる。その後、千葉県御用掛に就任。

1883年(明治16年)11月4日、向ヶ岡弥生社撃剣大会に出場。1884年(明治17年)11月8日、向ヶ岡弥生社撃剣大会に出場し、会田定次郎(警視庁)に勝ち、高山峰三郎滋賀県警察部)に敗れた。1885年(明治18年)7月7日、伊藤博文邸で開催された天覧試合に出場し、麻生彦一(警視庁)に勝った。

明治20年代、警視庁撃剣世話掛に就任。後に沖縄県に赴任する。1907年(明治40年)3月、東京帝国大学剣道部師範に就任。警視庁時代に片眼を失明していたため、主に理論で指導した。東京大学の剣道部で今も受け継がれている題字「遊於道」は、寿徳の揮毫である。

著書

参考文献

関連項目




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