後漢書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 10:17 UTC 版)
注釈と日本語訳
范曄『後漢書』はすぐに普及し、南北朝において広く読まれていた。南朝梁の劉昭注など、注釈にも様々なものが生まれていた[24]。ただし、劉昭の注は当時、劉知幾から「范曄が捨て去ったカスばかりを拾い、どうでもいいことばかりを注釈している」と酷評されるなど甚だ評判が悪かった。劉昭は三国志の裴松之注を真似て後漢書に載っていない話を積極的に注釈としたが、唐代の人からすればこういう方向は軽蔑されるもので、新たな注が必要とされていた。このため北魏の劉芳による音注や、隋の蕭該『范漢音』など、音訓の注は劉昭注に対抗して多く作られていた。この中で蕭該『范漢音』は評判が良かったという。[25]
唐の高宗のとき、章懐太子李賢が、学者を集めて范曄『後漢書』の注釈を作成した。これを李賢注(もしくは章懐注)という。これは范曄の本紀・列伝部分に附された注釈であり、蕭該『范漢音』や顔師古の漢書注などに基づいた『後漢書』の語句に対する解釈と、『後漢書』に書かれていない史実を補う注釈の二つを兼ね備えたものであった[26]。李賢注は皇太子が自ら行った注ということもあり権威を得、李賢注の成立によって、『後漢書』は本紀・列伝は李賢注、志は劉昭注を附した形が一般的となった。ただし、李賢注は顔師古注などを引用する時に取り違えている所もあるとされる。[27]
清代に入り考証学が発展すると、恵棟の『後漢書補注』、侯康の『後漢書補注続』などが作られ、これらを包摂して王先謙の『後漢書集解』が作られた。
後漢書の日本語訳は、古くは江戸時代の和刻本で訓点を付したものがあり、汲古書院から1992年に復刻されている。これは元の大徳年間に刊行されたものを日本で翻刻したものである。
戦後に入ってからは、本田済・藤田至善による部分訳はあったが、完訳はなかった。本田の訳は『漢書・後漢書・三国志列伝選』として平凡社から出ており、当初は中国古典文学大系に入っていたが、後に「中国の古典シリーズ」として単独でも発売された。
後漢書全文の完訳がなされたのは2001年(平成13年)から2007年(平成19年)にかけ、吉川忠夫による原文・読み下し・訓注が岩波書店(全10巻と別巻〈人名索引・地名索引〉)で刊行されてからである(岩波版は范曄による著述ではない「志」は除外)。ただし、これには現代日本語訳はなかった。
完全な日本語訳は、2001年(平成13年)から2016年(平成28年)にかけ、渡邉義浩を代表に原文・読み下し・訓注・現代語訳が、汲古書院(全18巻と別冊)で刊行されている。
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