庄高家 蛭川氏について

庄高家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 04:41 UTC 版)

蛭川氏について

高家は児玉郡栗崎を南下して、蛭川(現在の児玉町蛭川)に移住し、蛭川氏の祖となった(児玉町蛭川東廓に館があったと推定されている)。『武蔵七党系図』には、家弘の子、庄刑部亟高家の名で記載されている(刑部は蛭川氏に見られる通称)。高家の子息は、系図には、蛭川太郎定家、蛭川四郎家国などとある。また、『吾妻鑑』にも蛭川刑部極、蛭川刑部三郎など、一族の名が見える。

高家の孫の代になると、蛭川氏から今井氏が派生することとなる。

高家自身は庄氏を名乗っているが、その子孫は、蛭川氏や庄氏を名乗り、必ずしも氏は一定していなかった。児玉時国の子孫の伝承が正しければ、児玉氏を名乗りなおした者もいたと考えられる。

その他

  • 児玉党は武蔵七党の一つで、木曾義仲追討や一ノ谷の戦いなど、各戦での活躍が、『平家物語』『吾妻鏡』『源平盛衰記』に描かれている。
  • 高家は木曾義仲に仕え、他の兄弟は義経に従い、義仲の死後に高家は義経の家人となったという伝承がある(詳しくは庄三郎忠家の項を参照)。
  • 児玉町蛭川の神社には、高家が討ち取ったとされる重衡の首塚がある。ただし、重衡の生け捕りは、研究者の間では家長説が有力である。第一に、高家は武功に見合うだけの恩賞を与えられていない。大将クラスの者を捕えて何の恩賞も与えられていないというのはあまりにも不自然である。第二に、西日本当地の伝承においても、高家ではなく、家長が捕らえたと伝えている。第三に、備中国の猿掛城城主も家長と伝えられていることから、高家の所領ではないことが分かる。他多数の資料においても、高家が生け捕ったとは記述されておらず、家長の手柄として記述されている。『平家物語』のみが高家の手柄としてることから、信憑性は現状としては低い[1]
  • 高家が重衡を生け捕ったとする立場の研究者によると、備中国草壁庄に移住した庄氏は、歴代の通称が四郎であり、高家と関係するものではないかとしている。

  1. ^ 『児玉町史 中世資料編』に載る複数の『武蔵七党系図』や『蛭川氏系図』『庄氏系図』をはじめ、系図上では高家が重衡を生け捕ったとは記述されておらず、家長が捕らえたと記述されている。児玉町の研究者の一部は高家が生け捕ったとする説を主張しているが、本庄と岡山県在地の伝承を無視した資料不足を自覚しない論説であるため、本庄と岡山県の研究者には支持されていない[要出典]。『本庄歴史缶』(1997年)、『本庄人物事典』(2005年)においても家長説を取り上げている。○○の首塚と伝承されているものの中には、考古学的な調査の結果、否定されている例もある。


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