垂箕山古墳 概要

垂箕山古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 22:37 UTC 版)

概要

太秦・嵯峨野地域の主な古墳[2]
古墳名 形状 規模 石室全長 築造時期 陵墓・史跡
垂箕山古墳 前方後円墳 65m 5c末-6c初頭 宮内庁治定墓
3 天塚古墳 前方後円墳 73m (8.1m) 6c前半 国の史跡
(7.7m)
4

5
清水山古墳 前方後円墳 57m 6c中葉-後半 (消滅)
段ノ山古墳 前方後円墳 (消滅)
双ヶ岡1号墳 円墳 44m 15.8m 6世紀後半 なし
衣笠山1号墳 円墳 26m (6.0m) なし
6 蛇塚古墳 前方後円墳 75m 17.8m 6c末-7c初頭 国の史跡
円山古墳
(大覚寺1号墳)
円墳 50m 14.7m 陵墓参考地
狐塚古墳
(大覚寺4号墳)
円墳 28m (12.8m) なし
入道塚古墳
(大覚寺2号墳)
方墳 30m 11.2m 陵墓参考地
南天塚古墳
(大覚寺3号墳)
円墳 25-30m 8.1m (埋没)
御堂ヶ池1号墳 円墳 30m (8.3m) 京都市登録史跡
7 甲塚古墳 円墳 38m 14.4m 7c前半 なし
広沢古墳 円墳 30m 12.0m なし

京都盆地西部、桂川左岸の嵯峨野台地に築造された古墳である。現在までに墳丘を良好に遺存する[3]。現在は宮内庁治定の仲野親王墓として同庁の管理下にあり、これまでに本格的な調査はなされていない。

墳形は前方後円形で、前方部を東方に向ける。墳丘長は約63メートル[1](または約75メートル[4])を測る。特に前方部が極端に広がる形状をとる点が指摘される[4]。また墳丘くびれ部の南側にのみ造出を有するほか、墳丘周囲には周濠が巡らされる[1]。埋葬施設は詳らかでないが、明治初期の『御陵墓所在書』には横穴式石室の天井石が描かれることが知られる[1]

築造時期は、古墳時代後期の6世紀代(6世紀初頭[1]または6世紀中頃[4])と推定される。被葬者は明らかでないが、前述のように現在は宮内庁により仲野親王貞観9年(867年)死去)の墓に治定されている。嵯峨野地域では、垂箕山古墳のほかにも蛇塚古墳(墳丘長約75メートル、国の史跡)・天塚古墳(墳丘長約71メートル、国の史跡)・清水山古墳(墳丘長約60メートル、非現存)などの後期古墳の分布が知られ、これらは嵯峨野一帯を開発した渡来系氏族の秦氏一族の墓と推測されており[4]、垂箕山古墳はその中でも古い時期に位置づけられる[2]


  1. ^ a b c d e f 垂箕山古墳(続古墳) 2002.
  2. ^ a b 広瀬和雄 2013.
  3. ^ 仲野親王陵(平凡社) 1979.
  4. ^ a b c d e 「太秦の古墳を歩く」 (PDF) (京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館、2004年)。
  5. ^ a b c d e f g 高畠墓(国史).
  6. ^ a b 京都市埋蔵文化財調査概要 平成元年度 1994.
  7. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)14コマ。
  8. ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 409。





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