古代エジプト 社会

古代エジプト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/08 00:04 UTC 版)

社会

ファラオ (新王国時代の墓の壁画に基づく画)

1日を24時間としたのは、古代エジプトであるという説がある[5]

後述するように階級社会だったが、完全に固定されてはいなかったとされる。

階級

ファラオは神権により支配した皇帝である。わずかな例外を除き男性。継承権は第一王子にあり、したがって第一王子がファラオになる。名前の一部には神の名前が含まれた。

人口の1%程度の少ない貴族階級が土地を所有し支配していた。残る99%であるほとんどの平民は生産物の租税と無償労働が課せられる不自由な小作(セメデト)だった[6]。ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交代したり、王朝が変わると、土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。

教育

古代エジプトの教育制度については、どのパピルス文書にも、明確なことは記されていないが、数学・医学・建築など体系的な教育システムが必要な分野が発展しているため、相応の体制が整備されていたと考えられている。また知恵文学やその他のテキストからは、古代エジプト人が持っていた教育の目的や教育の内容に関する実際的な知識を僅かながら知ることができる。

裕福な農民の子供たちを含む、裕福な家庭の子供は14歳になるまでの間、公的な教育が施された。裕福な農民の子は神殿付属の学校へ、中流以上の子供は政府の建てた学校へ通った。それ以外の貧しい家庭の子と下層民の子弟の子達は、教育を受けなかったようである[7]

授業内容は学校の目的によって異なり、神殿付属の学校では、宗教儀礼に関する書物を写したり、宗教文学、葬祭の経典、経典の注解、神話物語などを勉強し、政府の学校では、算数、幾何学、測量術、簿記、官庁の書類作成などを学んだ[7]

他には、水泳やボート、レスリング、ボール競技、弓などといったスポーツも含まれていた。また、体罰(鞭打ちや学校の一室に監禁[7])は、怠けたり、言うことを聞かない生徒を正す良い方法であると思われていた。

後世、ギリシャ人もこうした制度を非常に高く評価している。

大貴族の息子の中には、王家の子供たちの教育にあたる教師のクラスに通う者もあったようである。他の者は、将来の役人を養成する学校に通っていた。14歳になると、医師や法律家そして書記を志望する子供たちは、さらに勉学を進めるために神殿へ送られた。

神殿には図書館があり、そこにはさまざまな学問分野のパピルス文書が保管されており、また神官たちは、さまざまな教育設備を用意していた。学生の訓練には、理論的なものと、実際的なものとの双方が用意されており、授業は、神殿内部の「生命の家」と呼ばれる場所で行なわれていたようである。この場所では、テキストの写本が作られ、保管されていた。

医学教育については不明な点が多いが、神殿の周辺地区で実際の患者の治療などが行なわれていたようである。

醸造、建築、造園など技能職の教育や訓練については不明な点が多い。

男子とは違い、女子に対する教育は、必要最低限のもので、王女を除いては、特に教育を受けることもなく、読み書きができる者もほとんどいなかった。彼女たちは、家庭にあり母親の手伝いを通じて、必要とする技術を習得した[8]

司法

古王国時代、現存する最古の記録が書かれる以前に、こうした法体系は原始的なものから洗練されたものへと発展していたようで、最古の記録から、既に法が公的な手順を踏んでいたことが明らかとなっている。多くの法的な問題としては、葬送や財産に関する問題やカー神官の土地の分配などの問題を取り扱っていた。

理論的には、王は絶対君主であり、また唯一の立法者でもあり、そして臣下の人々の生と死、労働、および財産に対して絶対的な力を持っていたが、現実には、民間の法律が存在し、財産の問題などは民間の法律によって処理された。一般に刑罰は厳しかったが、法自体は、他の古代社会に比して人間的なものであり、特に婦女子は法的に保護されていた。

しかしながら、第19王朝には、裁判の方法に関して問題が起こった。当時、二種類の法廷があり、そのひとつは地方の裁判所(ケネベト)で、これは役人を裁判長とし、地域の有力者によって構成されたもので、ほとんどの事件を処理することができた。

もうひとつの法廷は、いわば最高裁判所に相当するものでテーベにあり、宰相の下で、死刑に当たるほどの重罪を扱う機関であった。全ての証拠が提出され、裁判官たちによって検討され、判決は訴訟に負けた側が、その負けを認めた後で下された。しかし、第19王朝以降、判決が神託によって出される場合が生じるようになった。神の像が裁判官となり、また神の意志が像の前で行なわれる儀式によって伝えられた。原告は、像の前に立って容疑者の名のリストを読み上げ、犯人の名が呼ばれた時に、神像が何らかの兆候を見せると信じられていた。こうした方法は、明らかに裁判所の堕落と裁判の悪用を招くものであった。

新王国時代の法律および、それに関する資料は、第20王朝以降のテキストに見ることができる。

ラメセスⅨ世の時代に始まり、その後多年にわたり続いた裁判の詳細は、一連の非常に良く保存されたパピルスからわかる。社会状況は暗く、貧困が蔓延していたために、この時代になると、もともと普通のことであった墓泥棒があまりにも目に余るものとなってきて、王は墓泥棒たちに対して法的処置を講じ、裁判を行うようになった[8]


注釈

  1. ^ 上下というのはナイル川の上流・下流という意味であり、ナイル川は北に向かって流れているため、北にあたる地域が下エジプトである(逆もまた然り)。

出典

  1. ^ 年代区分は松本 (1998)およびスペンサー (2009)を参考にした。ただし、第3中間期の終了とそれに続く末期王朝時代の年代は学者により意見が分かれており定説を見ないが、ここでは26王朝で切るスペンサーの説に拠った。
  2. ^ 「地図で読む世界の歴史 古代エジプト」p18 ビル・マンリー著、鈴木まどか訳 河出書房新社 1998年7月15日初版発行
  3. ^ 『世界経済史』p64 中村勝己 講談社学術文庫、1994年
  4. ^ 松本 (1998), p. 18, 42, 98, 138, 278.
  5. ^ a b c d e Inc, mediagene (2012年7月20日). “なぜ1日は24時間なの?”. www.gizmodo.jp. 2021年7月20日閲覧。
  6. ^ 木村, 靖二岸本, 美緒小松, 久男 編『詳説 世界史研究』山川出版社、2017年11月30日、21頁。ISBN 978-4-634-03088-6 
  7. ^ a b c 古代オリエント集. 筑摩書房. (1978年4月30日) 
  8. ^ a b Kodai ejiputojin. David, Ann Rosalie., Kondō, Jirō, 1951-, 近藤, 二郎, 1951-. 筑摩書房. (1986). ISBN 4-480-85307-3. OCLC 673002815. https://www.worldcat.org/oclc/673002815 
  9. ^ 吉村作治『ファラオの食卓』 1章
  10. ^ a b c d 特別プロジェクト:古代エジプトビールの再現 - キリンビール大学”. 麒麟麦酒. 2021年5月14日閲覧。
  11. ^ 「古代エジプトの歴史 新王国時代からプトレマイオス朝時代まで」p37 山花京子 慶應義塾大学出版会 2010年9月25日初版第1刷
  12. ^ a b c 古代エジプト人、痛恨のミス 日本の科学がツタンカーメンに挑む|中東解体新書| - NHK
  13. ^ 「海を渡った人類の遙かな歴史 名もなき古代の海洋民はいかに航海したのか」p138 ブライアン・フェイガン著 東郷えりか訳 河出書房新社 2013年5月30日初版
  14. ^ a b c 古代エジプトの暮らし<1> 「食」ビール醸造 大発明:中日新聞しずおかWeb”. 中日新聞Web. 2021年5月14日閲覧。
  15. ^ 認定看護師リレーエッセイ No.11 | 市立旭川病院”. www.city.asahikawa.hokkaido.jp. 2022年11月28日閲覧。
  16. ^ Jean Towler and Joan Bramall, Midwives in History and Society (London: Croom Helm, 1986), p. 9
  17. ^ Reeko (2014年5月2日). “New Research Proves Clever Trick Egyptians Used To Move Those Massive Stones Across The Sand - Geek Slop” (英語). 2023年11月8日閲覧。
  18. ^ Mystery Of How The Egyptians Moved Pyramid Stones Solved” (英語). IFLScience (2014年5月5日). 2023年11月8日閲覧。
  19. ^ 「パンの文化史」p106 舟田詠子 講談社学術文庫 2013年12月10日第1刷発行
  20. ^ a b 欧米で主食なのはパンではなく、実は肉。しかしエジプトは本当にパンが主食だった│キリンビール大学│キリン”. キリン. 2021年5月14日閲覧。
  21. ^ スイカ”. いわき市. 2019年10月19日閲覧。
  22. ^ 古代エジプトの暮らし<2> 「美」青色は復活の願い:中日新聞しずおかWeb”. 中日新聞Web. 2021年5月14日閲覧。
  23. ^ a b c 古代エジプトの暮らし<3> 「娯楽」西洋音楽の「原型」:中日新聞しずおかWeb”. 中日新聞Web. 2021年5月14日閲覧。
  24. ^ 『図説 スポーツの歴史―「世界スポーツ史」へのアプローチ』稲垣正浩ほか著、大修館書店、1996年、pp. 14-15. ISBN 978-4-469-26352-7
  25. ^ 古代エジプトの暮らし<4> 「葬送」来世「永遠の生」を:中日新聞しずおかWeb”. 中日新聞Web. 2021年5月14日閲覧。





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