厳原八幡宮神社 祭神

厳原八幡宮神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/01 02:19 UTC 版)

祭神

歴史

社伝によれば、神功皇后三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この山は神霊が宿る山であるとして山頂に磐境を設け、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀ったという。677年天武天皇6年)、天武天皇の命により清水山の麓に社殿を造営して八幡神を祀ったのに始まると伝える[1]1476年文明8年)の棟札写に「それ当社はすなわち州の男山の原廟にして万世鎮国の霊神なり」とあり、八幡信仰の中心である石清水八幡宮の起源ともいわれている、という俗伝もあるが、近年当社で編集/発行されている『八幡宮神社由緒略記』には、これらの俗伝は採用されていないる[1]

対馬には上県郡下県郡に八幡宮があり、上県郡のものを上津八幡宮(現 海神神社)、下県郡の当社を下津八幡宮と並び称した。戦国時代ごろから府中八幡宮と称されるようになった。

1871年明治4年)、当社が式内名神大社「和多都美神社」に比定されて和多都美神社に改称したこともあったが、1890年(明治23年)に元の八幡宮に戻し、「八幡宮神社」と称して、現在は和多都美神社との関連を称してない[2]。明治7年に郷社に列せられ、1916年大正5年)に県社に昇格した。

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脚注


  1. ^ a b 昭和48年9月16日発行『増訂・対馬島誌』(編者・対馬教育会)P519。これらの由緒は、古い伝承を踏襲したもので、現在は、八幡宮神社の社務所で『八幡宮神社由緒略記』を希望者に配布している。また前掲『対馬島誌』等の内容を新しくしたものとして、永留久恵『対馬国志』(第1巻・原詩古代篇)の当該箇所(「式内社の名神たち」など)を参照するとよい。
  2. ^ 式内名神大社「和多都美神社」の論社といっても、八幡宮との間に祭祀の継承があるわけでなく、後に関係を否定したのが正しい対処かもしれない。また和多都美の論社して乙和多都美神社(厳原町久和)も挙げられているが、こちらも現在は式内社を称していない。


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