光厳天皇
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直仁親王について
出生の真実
花園法皇の皇子とされる直仁親王は、光厳上皇と正親町実子(宣光門院)との間にできた皇子であるとされる。光厳は自ら執筆した興仁親王(後の崇光天皇)宛の置文(『光厳院宸翰御置文』〈鳩居堂所蔵〉、康永2年4月13日付[注 48]。)において、「直仁親王は花園法皇の子だと皆が言っている。しかし、それは違う。もとは私の実子である。さる建武2年5月まだ宣光門院が懐妊する前に、春日大明神のお告げがあり、その霊験によって出生したのである。その子細は私と宣光門院以外には誰も知らないことである」と記していた[363]。
この記述について、花園法皇に対する報恩として直仁親王を持明院統の正嫡とするために設定された秘密であるという赤松俊秀の説があった[364][365]。しかし、「田中本帝系図」において直仁親王が光厳の第二皇子とされていること、この置文が天照大神などの神々を引いた真剣な誓言であること[注 49]を、『光厳院御集全釈』(岩佐 2000)の著者で、国文学者である岩佐美代子が指摘し、置文にある件の記述は真実であるとしている[367][362] 。この見解には、飯倉や深津も賛同した[368][362]。
宣光門院の立場
宣光門院(正親町実子)は花園の寵愛を受けており、この場合光厳が花園の妃を寝取ったことになるが、懐妊時点で実子は女院宣下を受けておらず、岩佐によれば、花園の寵妃であるが正規の后妃ではない、すなわち花園のみならず光厳の寵をも受けて差し支えない女房待遇であった[367] 。岩佐は、光厳廃位によって逼塞していた持明院殿の生活において、六波羅攻防戦のなかただ一人花園に従っていた実子が失意の花園と光厳を慰めたと推測している[367]。
同様の立場に、実子の姉である正親町守子がいる[367]。守子は、伏見院と後伏見院とから寵愛を受け、両上皇の皇子女を授かった[367]。花園も心惹かれていたという[367]。また大覚寺統においても亀山院と後宇多院とから寵愛を受けた五辻忠子が知られ、鎌倉時代後期の後宮においては同様の例がいくつも見られる[369]。このことから深津は、光厳が花園の寵愛深い女性と関係を持ったことはそれほど意外なことではないとしている[362]。
直仁親王の立太子
先述の置文や、宮内庁書陵部所蔵の興仁親王(後の崇光天皇)に授けた置文(『光厳院御文類』宮内庁書陵部所蔵)にて、直仁親王が皇位継承し[370]、持明院統の嫡流になることが定められ[371]、崇光天皇践祚と同時に直仁親王は皇太弟となった。
直仁親王の皇位継承を計画した光厳の思惑については意見が分かれている。主なものには、赤松や岩佐などの、花園に対する報恩であるという説(光厳は幼少期に花園から帝王教育を施されていた)[372][367] 、家永の、足利将軍家との縁戚関係を利用しようとした説(実子の兄の正親町公蔭は、足利尊氏正室の赤橋登子の姉妹である種子を妻に持つ)[373]などがある。深津は、花園への報恩説を支持し、光厳は、後伏見の子孫への皇位継承を厳命する祖父伏見院の指示を守りつつ、花園への報恩を行うために、血統上は光厳の皇子であり、表面上は花園の皇子である直仁親王を利用したとしている[374]。
なお、光厳は、興仁践祚および直仁立太子に先立って花園法皇の御所に御幸し皇位継承の相談をしたが、深津はこの際に花園が直仁親王出生の真実を知った上で了承したとしている[375]。
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