光厳天皇 伏見宮との関係

光厳天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/04 07:33 UTC 版)

伏見宮との関係

光厳は、持明院統の正嫡として直仁親王を指名していたが、正平の一統の結果直仁親王の皇位継承が困難となり、光厳が直仁親王を正嫡とした置文は無効となった[376]。そこで光厳が改めて正嫡に定めたのが、光厳の第一皇子崇光上皇である[377]。以降、光厳は崇光上皇の系統への皇位継承に執念を燃やすようになる[315]。崇光の皇子である伏見宮栄仁親王を祖とし、崇光の直系の子孫に当たるのが伏見宮である[378]

所領

光厳は晩年に次のような処分を置文で定めた。

  1. 長講堂領法金剛院領(持明院統の所領群)は、崇光の皇子栄仁親王が践祚した場合は、崇光より直ちに親王が相続すること[379]
  2. 栄仁親王が践祚しない場合は、後光厳天皇が相続すること[379]
  3. 将来的に崇光院流皇統(崇光天皇の子孫)と後光厳院流皇統(後光厳天皇の子孫)の両統迭立になる場合は、嫡流であるため崇光の子孫が相続すること[379]

後崇光院がしたためた『椿葉記』によれば、光厳は崇光院流皇統への皇位継承を本望としていた[380]。しかし、結果的に栄仁親王は践祚せず後光厳天皇の子孫が皇位継承していったがために、この置文に基づいて、崇光上皇の崩御後に長講堂領や法金剛院領、さらに熱田社領や播磨国衙領(すなわち、ほぼ全ての持明院統の所領)までもが後小松天皇に没収されてしまった[381]。 しかし、光厳は次のような処分も置文で定めていた。

その後、伏見御領までも足利義満に没収されてしまったが、室町院領が伏見宮に譲与され、義満の没後にこの置文に基づいて伏見御領も返却された[384]。特に伏見御領に関する光厳の取り決めは、伏見御領を伏見宮に留まらせた点で重要であり[385]、日本中世史研究者である秦野裕介は「この置文がなければ崇光の子孫(=伏見宮家[注 50])はあっさり断絶していたかもしれない」と評価し[382]、飯倉もその先見の明を評価している[386]

記録類

『仙洞御文書目録』や『即成院預置御文書目録』などの史料から、光厳は持明院統に伝わっていた記録類の全てを崇光上皇に譲ったと見られる[380][387]。それらは、明治時代に至るまで伏見宮に継承されていった[380][379]。なお、これらの持明院統の記録類は、光厳が拉致直前に仙洞御所であった持明院殿より洞院公賢などに預けていたものであるが、この光厳の行動に関して岩佐は、「宸翰類はじめ持明院統関係の貴重資料多数が現代に残るのは、この緊急時における院(=光厳[注 51])の冷静な判断によるところが大きい」と評価している[388]。また、後花園天皇の治世下、伏見宮貞成親王より『誡太子書』を献上されているが、秦野は、これが後花園天皇の君徳涵養に役立ったとした上で、光厳がそれらの記録類を崇光の子孫すなわち伏見宮に継承させていたことが、ここに来て大きな意味を持ったと評価している[389]

家業

伏見宮は琵琶を伝統の家業としており、貞常親王の代まで秘曲伝授が行われてきたが、これも光厳が在俗最後の事業として崇光に伝授したものである[390]。なお、光厳が属し主導していた京極派歌壇は、観応の擾乱以降壊滅してしまったものの、伏見宮家にて編まれた『菊葉和歌集』にて栄仁親王や治仁王の御歌に京極派の特徴が見られ、初期の伏見宮家においては京極派の特徴を有する和歌が詠まれていたとされる[391]。もっとも、京極派の特徴を有する和歌は詠まれず途絶えてしまった[392]








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