佐々成政 肥後治政についての諸説

佐々成政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 09:58 UTC 版)

肥後治政についての諸説

佐々成政が身を滅ぼす元凶となった肥後国人一揆とその原因とされる検地強行については、様々な評価がある。従来は、小勢力ながら武士である国人が割拠する肥後に対し秀吉は慎重な統治を求めたのに対し、成政が強硬な手段に出たため反発を招き一揆が勃発したとされ、そこから逆に秀吉の陰謀説も唱えられていた。しかし、この説には、疑問もしくはより複雑な背景があるという意見が提示されている[57]

秀吉が成政に慎重な領国運営を求めた論拠は、『太閤記』にある「五箇条の定書(制書)」に記された国人の知行安堵と三年の検地禁止にある。しかし、天正13年(1585年)6月6日に与えたとされるこの書は宛名が「佐々内蔵助」となっており、それに先立つ6月2日に成政を肥後国主に任命する領地宛行状(『楓軒文書纂』)にある宛名「羽柴肥後侍従」とも、またそれに先立つ5月晦日に国人の相良長毎大矢野種基に宛てた朱印状にある成政を指す「羽柴陸奥守」とも異なる。また、文体に漢文と和漢文が混ざっている点も不自然である[58]。これらを証拠に、定書には疑問が呈されている[57][59]

成政は入国後検地に着手し、これに反発した7月10日の隈部親永反乱が国人一揆の勃発を呼んだとされている。しかしながら、成政検地の実態は明らかにされていない。大宰府天満宮文書に残る合志郡富納村の実施例(『肥後国合志郡富納村天満宮領指出分置日記』)では、検地は指出方式で行われ、具体的な石高は記録されていない。ところが、小代親泰へ与えた安堵宛行の文書では、秀吉の安堵が200なのに対し、成政は秀吉安堵が50町であり100町を新たに成政が与えるとしている。このような分析から、成政は肥後国人支配を朱印状に基づく秀吉直下から、成政が影響力を持ち、間に入る重層型への切り替えを行いつつ、実質の領地を削減しようとした行動があったものとみなす説もある。その他にも、領地組み換えを行い勢力の分散を図った点も見られ、これらが複合的に国人の反発を招いたとも分析されている[57]

一方で、成政が切腹当日に秀吉が一揆鎮圧に加わった諸大名に発給した「陸奥守前後悪逆条々事」と呼ばれる成政を断罪する文書には検地の事は触れられず、成政と隈部親永の不仲が一揆の原因であると断定している。また、前述のように同じく検地や国人たちの統治を巡って勃発したとみられる豊前国人一揆では一揆を引き起こした領主の黒田孝高への処分は行われていない[49]

更に隈部親永らの反発の原因は検地に対してではなく、九州国分そのものに対する不満であるとする指摘がある。肥後国では、天正年間に入ってから島津氏の北上を背景に親島津側の国人と親大友側の国人が激しく争ってきたが、最終的に島津氏が肥後全域を占領し、親大友側の国人を島津軍に領地を差し出して降伏することを余儀なくされていた。九州平定においていち早く秀吉への臣従の意を示した隈部氏らは元・親大友側の国人であり、彼らは島津氏に奪われた所領の回復を期待していた。しかし、実際の国分では元・親大友側の国人の旧領回復が認められず、一方で秀吉に敵対してきた親島津側の国人も多くが存続を認められた。旧領回復が果たせなかったことなどで国人たちの豊臣政権への期待は反感に変わり、直接的には新領主である成政に向けられたのはないかとしている[60]

秀吉は、「五畿内同前体制」と呼ばれるように九州を畿内と同様に重視していた。この背景には、既に朝鮮半島そしてへの遠征(後の文禄・慶長の役)が視野にあったとされる。重要な兵站後援地となる肥後の国主に成政を任命した背景には、それだけ秀吉は成政を高く評価していたという説もある。羽柴姓や陸奥守という官職を与えていたところが、この根拠とされている[57][59]


注釈

  1. ^ ただし、家康は成政を見捨てた訳では無く、富山の役の最中に羽柴方についていた信濃国の真田昌幸を攻撃している(第一次上田合戦)のは、秀吉を牽制して成政を救う意図があったとする指摘もある[30][31]
  2. ^ 53説が最も有力視されているが、没年は50歳から73歳説まで諸説あり、そこから逆算した生年になっているので、正確な生年は不詳である。ただし『武家事紀』『武功夜話』には天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いで戦功を挙げた旨の記述があり、もしもそれが正しければ生年の天文5年(1536年)説・天文8年(1539年)説は考えにくくなる[42]。また、天文年間誕生説は17世紀後期になって初めて出現したのに対し、永正年間説は林羅山が編纂した『豊臣秀吉譜』や加賀藩士関屋政春の覚書を甥の有沢武貞が整理した『政春古兵談』が採用していることに注意すべきとする指摘もある。前者は成政死去時は6歳ではあるものの時代的に大きく離れておらず、後者は成政没後の生まれであるが成政旧臣が多く仕えていた加賀藩の家臣で、成政を直接知る者と面識があった可能性があるからである[43]

出典

  1. ^ 花ヶ前 2002, p. 11, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  2. ^ 「とやま城郭カード第二弾が完成しました!」砺波市公式HP
  3. ^ 「とやま城郭カード一覧(第二弾)」砺波市公式HP
  4. ^ 花ヶ前 2002, p. 10, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  5. ^ 花ヶ前 2002, p. 72, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
  6. ^ 花ヶ前 2002, p. 16, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  7. ^ 花ヶ前 2002, p. 17, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  8. ^ 花ヶ前 2002, p. 74, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
  9. ^ 花ヶ前 2002, p. 18, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  10. ^ 花ヶ前 2002, p. 20, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  11. ^ 萩原、2023年、P10・434-436.
  12. ^ 花ヶ前 2002, p. 77, 谷口克広「佐々成政とその時代」.
  13. ^ 『富山県史』通史編Ⅲ 近世上、1980年
  14. ^ 荻原、2023年、P15-16・438.
  15. ^ 花ヶ前 2002, p. 109, 奥村徹也「佐々成政と柴田勝家」.
  16. ^ 荻原、2023年、P440.
  17. ^ 浅野清 編著『佐々成政関係文書』新人物往来社、1994年。 
  18. ^ 花ヶ前 2002, p. 146, 池田こういち「佐々成政の越中支配」.
  19. ^ 木越隆三『織豊期検地と石高の研究』桂書房、2000年。 
  20. ^ 萩原、2023年、P17-19.
  21. ^ 花ヶ前 2002, p. 113, 奥村徹也「佐々成政と柴田勝家」.
  22. ^ 花ヶ前 2002, p. 32, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  23. ^ a b c d 佐伯哲也「天正十二・三年における佐々成政の動向について―新紹介の村上義長と某宗句の書状を中心として―」『富山史壇』第148号、2005年。 
  24. ^ a b c 鈴木景二「佐々成政の浜松行き道筋試案―有沢永貞『雑録追加』所収文書を手がかりに―」『富山史壇』第154号、2008年。 
  25. ^ 遠藤和子『佐々成政』サイマル出版会、1986年。 
  26. ^ 天正12年6月7日付前田利家宛羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』2、1102号)
  27. ^ 天正12年3月29日付羽柴秀吉宛丹羽長秀書状(『大日本史料』11-6、P416.)
  28. ^ 天正12年7月6日付羽柴秀吉宛羽柴秀吉書状(『豊臣秀吉文書集』2、1132号)
  29. ^ a b 高岡徹「小牧・長久手の戦いと越中―秀吉陣立書と成政の蜂起―」『富山史壇』第183号、2017年。 
  30. ^ 竹井英文「〈越中国切〉をめぐる政治過程」『信濃』66巻12号、2014年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P254.
  31. ^ 萩原、2023年、P22.
  32. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、28頁。 
  33. ^ 廣瀬誠『越中の文学と風土』桂書房、1998年、353頁。 
  34. ^ 廣瀬誠「佐々成政の佐良佐良越えに関する諸説をめぐって」『富山史壇』56・57号、1973年。 
  35. ^ 米原寛「佐々成政『ザラザラ超え』考」『富山県立山博物館研究紀要』14号、2007年。 
  36. ^ 遠藤和子『佐々成政 史伝』〈学研Ⅿ文庫〉2002年。 
  37. ^ 服部英雄「検証・佐々成政は本当に厳冬期の針ノ木峠を超えたのか(前・後)」『岳人』595・596号、1997年。 
  38. ^ 服部英雄「佐々成政『ザラ超え』の新事実」『歴史読本』685号、1997年。 
  39. ^ 片桐昭彦 著、上越市史編さん委員会 編『上越市史 通史2 中世』2004年、475頁。 
  40. ^ a b c 花ヶ前 2002, p. 164, 森本繁「佐々成政の肥後支配」.
  41. ^ 浅野清「福智院家文書と佐々成政の没年齢」『歴史研究』357号、1991年。 
  42. ^ 谷口克広『織田信長家臣人名事典』(第2版)吉川弘文館、2010年。 
  43. ^ 萩原、2023年、P8-10.
  44. ^ 浅野清『佐々成政関係資料集成』1990年。 
  45. ^ 浅野清「福智院文書と佐々成政辞世歌」『国文学年次別論文 中世』、学術文庫刊行会、1991年。 
  46. ^ 浅野清「佐々成政辞世歌」『名古屋自由学院短大研究紀要』1994年。 
  47. ^ 廣瀬誠「太田道灌と佐々成政―その辞世歌をめぐって―」『富山史壇』105号、1991年。 
  48. ^ 廣瀬誠『越中の文学と風土』桂書房、1998年、201-202頁。 
  49. ^ a b 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」『九州史学』164号、2012年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P276-279.
  50. ^ 花ヶ前 2002, p. 264, 佐々成政研究会「佐々成政史跡事典」.
  51. ^ 花ヶ前 2002, pp. 201–202, 川口素生「佐々成政逸話・伝説集」.
  52. ^ 花ヶ前 2002, pp. 115–116, 奥村徹也「佐々成政と柴田勝家」.
  53. ^ 花ヶ前 2002, pp. 213–214, 川口素生「佐々成政逸話・伝説集」.
  54. ^ 花ヶ前 2002, p. 37, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  55. ^ a b 花ヶ前 2002, p. 38, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.
  56. ^ 佐々瑞雄. “平成14年5月号 特別寄稿 佐々成政と肥後国衆一揆 ~中世から近世への歴史的転換点~”. 2014年2月8日閲覧。
  57. ^ a b c d 岩本税、島津義昭、水野公寿、柳田快明『新≪トピックスで読む≫熊本の歴史』弦書房、2007年、100-101頁。ISBN 978-4-902116-85-4 
  58. ^ 遠藤和子 1986
  59. ^ a b 松本寿三郎、板楠和子、工藤敬一、猪飼隆明『熊本県の歴史』(第一版第一刷)山川出版社、1999年、150-153頁。ISBN 4-634-32430-X 
  60. ^ 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」『九州史学』164号、2012年/所収:萩原大輔 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻 佐々成政』戎光祥出版、2023年。2023年、P274-276・279-283.
  61. ^ 花ヶ前 2002, p. 33, 花ヶ前盛明「佐々成政とその時代」.


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