九子奪嫡
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雍正簒位
大将軍王胤禵
話は脇へそれ、時代は遡り、太宗ホンタイジが国号をアイシン (後金) からダイチン (大清) に改めた天聡10年、即ち崇徳元年 (1636)、蒙古オイラト四部を構成するホシュート部の領袖トゥルバイフ (グーシ・ハーン) は、チベット仏教ゲルク派 (黄教) の要請を受けて、同じくオイラトを構成するするジュンガル部の族長ホトゴジン (バートル・ホンタイジ) を青海に遠征させ、ゲルク派と対立するカギュ派の後援者、チョクトゥ・ハーンを滅ぼして同地を平定した。そして順治帝即位前年の崇徳7年 (1642) には、蔵巴汗を討滅してチベットを統一し、ダライ・ラマ五世を推戴する一方、自らはチベット王を名乗ってグーシ・ハーン朝をチベットに樹立し、オイラト運営をジュンガル部族長ホトゴジンに委ねた。[52]
ホトゴジンの子ガルダン・ハーンはダライ・ラマ五世の許で仏僧として修行していたが、兄エセン・ハーンが殺害されると還俗してジュンガル部族長となり、オイラト故地に残留していたホシュート部を殲滅して急激に勢力を伸長した。しかし康熙35 (1696) に清軍に敗れると、間も無く病死し、エセン・ハーンの子ツェワン・アラブタンがその後を継いでジュンガル部族長となった。[53][54]
清朝は順治、康熙とチベットに対して政教分離を実施させ、ダライ・ラマをチベット仏教上の指導者とし、政治上はグーシ・ハーン一族を通じて間接的にチベットを統治してきた。そこに現れたジュンガル部族長ツェワン・アラブタンはチベットが清朝の属領となることを危惧し、康熙56年 (1717)、突如チベットに侵攻してトゥルバイフの曾孫ラサン・ハーンを殺害した。これによりグーシ・ハーン朝の直系は途絶え、清朝のチベット統治に支障を来した。[55]
康熙帝はチベット統治の問題を解決すべく、康熙57年 (1718) 10月、十四阿哥・胤禵を大将軍に任命し、ジュンガル討伐に派遣した。[56]同年、59年 (1720) の二度に亘って胤禵率いる清軍はチベットに進攻し、[55]チベット情勢の安定化に大きく貢献した。そして清朝国内では、この誉高き地位に任命された十四阿哥・胤禵こそ、康熙帝が密かに決めた帝位継承者に違いないと推断した官僚らが、こぞって胤禵に取り入り、胤禵践祚後の自らの出世を夢にみた。
三爺党は三阿哥が皇太子支持に廻ったことを受けて解体したが、皇太子の廃位で太子党も解体した。八阿哥・胤禩は転じて十四阿哥・胤禵の擁立に廻り、九阿哥・胤禟、十阿哥・胤䄉らは八阿哥・胤禩に雷同した。四阿哥・胤禛はかつて二阿哥・胤礽が初めて廃位された時には身を張って弁護したが、二度目の廃位の後、再起の可能性なしと見限り、自己勢力の結成を始め、皇位継承を狙うようになった。こうして四阿哥・胤禛を頂く四爺党と、八阿哥・胤禩を首魁とする八爺党 (が支持する十四阿哥・胤禵) の二大勢力による一騎討ちが始まった。
康熙帝崩御
康熙61年 (1722) 11月、康熙帝が暢春園において崩御した。
諸大臣らの期待を受ける十四阿哥・胤禵がジュンガルを平定しチベットへ進軍を続ける中、同母兄の四阿哥・胤禛は康熙帝の代理として天壇で祭祀を務めていた。康熙帝の近臣である九門提督・ロンコドが宣読した康熙帝の遺言にはその四阿哥・胤禛を継承者とする詔勅が書かれていた。そして四阿哥・胤禛 (雍親王) が即位 (雍正帝) したことで、「九子奪嫡」はようやく幕を閉じた。しかし諸皇子の間の闘争はその後も続き、雍正帝と敵対する皇子らは盛んにその践祚を不正であると言いふらした。雍正帝はその権力をもって敵対勢力を粛清したものの、野史の中には、ロンコドが康熙帝の遺言から「十」の字を故意に消し去った、或いは「十」を「于」(=於) に書き換えて遺言を改竄した (伝位十四→伝位于四)、つまり康熙帝の指名したのは十四阿哥・胤禵であったとする説もあり、「雍正簒位」としてその後も雍正帝の評判を貶める一因となった。
のちに雍正帝は自らの経験を教訓とし、皇帝が秘密裡に儲君 (皇太子) の人選を定め、その人物の名を書いた詔書を乾清宮内の「正大光明」と書かれた扁額の裏に置き、皇帝崩御ののちに大臣が詔書を宣読して新君主の即位を天下に知らしめるという方法を定めた。これを「太子密建」(あるいは秘密立儲) という。
- ^ 参考:「九王奪嫡」の称は、康熙帝の存命中に「王」(親王または郡王) に冊封された者が9名中の数名に止まり、且つ皇二子・胤礽が冊封されたのは皇太子であって「王」ではない為、この点からは不適切。
- ^ a b 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 12-13, 一. 懊悩する老帝
- ^ 『清朝全史』, p. 635-636, 上巻「皇位承繼の紛爭」.
- ^ a b c 楊啓樵 1987, p. 115-116
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 12.
- ^ “ᠠᡤᡝ age”. 『五体清文鑑訳解』(和訳). 京都大学文学部内陸アジア研究所. p. 254 . "皇子"
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- ^ a b c 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 13-16, 一. 懊悩する老帝
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- ^ “列傳一 (孝誠仁皇后)”. 清史稿. 214. 清史館
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- ^ “康熙14年12月14日段11807”. 聖祖仁皇帝實錄. 58. 不詳
- ^ 参考:謨烈=宏謨と功烈。
- ^ “日表” (華語). 重編國語辭典修訂本. 中華民國教育部 . "3. 帝王的儀表。"
- ^ 蔡, 元培 (1917-9) (中文). 石頭記索隱. 商務印書館. p. 10 . "……胤礽生而有為皇太子之資格,故曰銜玉而生……"
- ^ a b 楊啓樵 1987, p. 17
- ^ a b c d e 楊啓樵 1987, p. 117-120
- ^ a b c d “索額圖”. 清史稿. 269. 清史館
- ^ a b c 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 19 次に現れた朋党の大親分がソエト (索額図) である。ソエトはやはり満洲の名族出身、ことに皇太子の亡き母皇后の叔父にあたる。……このソエトが自己の地位を一層強化するために、皇太子を抱きこんで後盾としたから、ことはすこぶる面倒になった。
- ^ a b 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 19-20, 一. 懊悩する老帝
- ^ “康熙29年7月24日段16287”. 聖祖仁皇帝實錄. 147. 不詳
- ^ “康熙37年3月2日段18381”. 聖祖仁皇帝實錄. 187. 不詳
- ^ 四阿哥胤禛 (雍正帝) 践祚後、「胤 yìn」は偏諱の対象となり、皇帝になり損ねた皇子らの名は「允 yǔn」に改められたが、雍正帝の信頼を得た十三阿哥胤祥だけは特別に「胤」の使用を允可された。
- ^ a b 稻葉岩吉(『清朝全史』)には皇太子・胤礽、大阿哥・胤禔 (直郡王)、三阿哥・胤祉 (誠郡王)、四阿哥・胤禛 (ベイレ)、八阿哥・胤禩 (ベイレ)、九阿哥・胤禟、十三阿哥・胤祥、十四阿哥・胤禵の都合八名が紹介されているが、十阿哥・胤䄉については触れられていない。また、「九子奪嫡」あるいはそれに相当する名称もみられない。九人のうちの一人としての十阿哥・胤䄉と「九子奪嫡」の名称は维基百科「九子夺嫡」より引用したが、典拠不詳。
- ^ a b c d e f “康熙47年9月4日段21353”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ a b 劉, 心武 (2005年5月). “帳殿夜警之謎”. CCTV.com. 中国中央電視台. 2023年12月24日閲覧。
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- ^ a b “康熙47年9月25日段21370”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』 & loc一. 懊悩する老帝, p. 22-26.
- ^ 不詳。参考:同時代の人物で「輔国公・頼士」という名がみえる。
- ^ 参考:『清史稿』巻162に拠れば、太祖ヌルハチ→子・褚英チュイェン→孫・杜度→曾孫・杜爾祜→玄孫・敦達→来孫・普奇。
- ^ “康熙47年9月29日段21374”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ a b c “康熙47年10月2日段21377”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ “聖祖本紀三”. 清史稿. 8. 清史館 . "十一月……庚子,復胤禩貝勒。"
- ^ a b c 「-格隆」や「-噶卜楚」は何かしらの称号あるいは職階か。
- ^ “康熙47年10月15日段21388”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ a b “康熙47年9月28日段21373”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ a b c d “康熙48年4月15日段21511”. 聖祖仁皇帝實錄. 237. 不詳
- ^ “康熙47年10月30日段21398”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ “康熙47年11月1日段21399”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ “康熙48年4月20日段21515”. 聖祖仁皇帝實錄. 237. 不詳
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』 & loc一. 懊悩する老帝, p. 26.
- ^ 聖祖仁皇帝實錄
- ^ “聖祖本紀三 (康熙48)”. 清史稿. 8. 清史館
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 26-28.
- ^ “聖祖本紀三”. 清史稿. 8. 清史館 . "九月……皇太子胤礽復以罪廢,錮於咸安宮。……十一月……丁未,以復廢皇太子胤礽告廟,宣示天下。"
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 28-30, 一. 懊悩する老帝.
- ^ “聖祖本紀三”. 清史稿. 8. 清史館 . "二月……檢討朱天保上疏請復立胤礽為皇太子,上於行宮親訊之曰:「爾何知而違旨上奏?」朱天保曰:「臣聞之臣父,臣父令臣言之。」上曰:「此不忠不孝之人也。」命誅之。"
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 30-32.
- ^ “顧実汗”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカ・ジャパン
- ^ “ガルダン (噶爾丹)”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカ・ジャパン
- ^ “ツェワン・アラプタン (策妄阿拉布坦)”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカ・ジャパン
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- ^ “康熙57年10月12日段23989”. 聖祖仁皇帝實錄. 281. 不詳
- ^ “千岁 qiānsuì”. 超級クラウン中日辞典. 三省堂. "〘名〙〈旧〉王公・太子・后妃をさす呼称。殿下。陛下。[参考] 皇帝を"万岁"と呼ぶのに対する表現。"
- ^ a b c d e f g h i “康熙47年9月4日段21353”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ a b c d e f g 参考:二格、蘇爾特、哈什太、薩爾邦阿、杜默臣、阿進泰、蘇赫陳、倪雅漢は素性不詳ながら、『清史稿』巻220「理密親王允礽」には「允礽左右」(=胤礽の側近) と記載がある。一説にはその内のいづれかが胤礽と断袖の関係にあったとも (→参照「愛新覺羅胤礽」)。
- ^ a b “康熙57年1月20日段23783”. 聖祖仁皇帝實錄. 277. 不詳
- ^ “康熙40年6月27日段19345”. 聖祖仁皇帝實錄. 204. 不詳
- ^ “康熙57年2月18日段23804”. 聖祖仁皇帝實錄. 277. 不詳
- ^ 四阿哥・胤禛の養母・佟妃 (孝懿仁皇后) の弟で、「舅舅隆科多 (ロンコド叔父さん)」と呼ばれた。
- ^ a b “康熙53年11月26日段22939”. 聖祖仁皇帝實錄. 261. 不詳
- ^ 参考:全44話の内、20話が雍正王 (四阿哥) 時代、残りの24話が皇帝時代を描いている。
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