九子奪嫡
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党派
ここには「奪嫡」闘争に参与した者を挙げる(そのほかの皇子については康熙帝の記事を参照)。参与しなかった理由については興味関心がなかったこと、或いは障碍があったこと、また或いは夭折して既に他界していたことなどが考えられる。
大千歲党
康熙帝の庶長子である大阿哥・胤禔 (直郡王) を支持する一派。胤禔が監禁された後は、八爺党に吸収された。「千歳」は太子の呼称[57]で、皇帝は「万歳」と呼ばれる。
主な支持者:明珠、余国柱、仏倫。
太子党
二阿哥・胤礽を支持する一派。
主な支持者:
- 索額図ソンゴトゥ:胤礽の大叔父。皇太子の権勢を康熙帝と同等にまで高め、その裏で甘い汁を吸い尽くしたが、謀叛画策の廉で自死。[19]
- 蘇爾特:康熙47年に皇太子が初めて廃位された際に粛清された。[58][59]
- 哈什太:康熙47年に皇太子が初めて廃位された際に粛清された。[58][59]
- 薩爾邦阿:康熙47年に皇太子が初めて廃位された際に粛清された。[58][59]
- 杜黙臣:康熙47年に皇太子が初めて廃位された際に盛京ムクデンへ配流された。[58][59]
- 阿進泰:康熙47年に皇太子が初めて廃位された際に盛京ムクデンへ配流された。[58][59]
- 蘇赫陳:康熙47年に皇太子が初めて廃位された際に盛京ムクデンへ配流された。[58][59]
- 倪雅漢:康熙47年に皇太子が初めて廃位された際に盛京ムクデンへ配流された。[58][59]
- 斉世武
- 托合斉
- 鄂繕
- 朱天保:朱都納の子。翰林院検討官職名。皇太子二度目の廃位後に再復位を奏請したが、勅旨違反の廉で斬首された。[60]
- 朱都納:朱天保の父。康熙40年に兵部左侍郎を免黜。[61]婿・載保と皇太子復位を画策し、子・朱天保に奏請させたが失敗した。[60]
- 載保:朱都納の婿。朱都納と共に皇太子の再復位を謀ったが失敗し、兄・達寿の助力のもと脱獄したものの捕縛され、斬首された。[62]
三爺党
三阿哥・胤祉 (誠親王) を支持する一派。「奪嫡」闘争から手を引いたのちは太子党に吸収された。
主な支持者:陳夢雷。
四爺党
四阿哥胤禛 (雍親王) を支持する一派。康熙51年より前までは太子党の一派であったが、二度目の廃太子以降、分裂独立。闘争の勝利者。
主な支持者:十三阿哥・胤祥 (怡親王)、十六阿哥・胤禄 (荘親王)、十七阿哥・胤礼 (果親王)、二十一阿哥・胤禧、二十四阿哥・胤祕、年羹堯、ロンコド[63]、張廷玉、尹継善、李光地、李衛、衍潢、蔡珽、博爾多、田文鏡、戴鐸、オルタイ (鄂爾泰)、策棱、馬斉、馬武。
八爺党
八阿哥・胤禩 (のちの廉親王) を支持する一派。
主な支持者:九阿哥・胤禟、十阿哥・胤䄉、十四阿哥・胤禵 (大将軍王)、十五阿哥・胤禑、福全、満都護、景熙、呉爾占、蘇努、阿布蘭、佟国維、延信、馬斉 (大学士)、阿霊阿[64]、揆叙、王鴻緒、阿爾松阿、鄂倫岱[64]、何焯、秦道然、張廷枢、普奇、馬爾斉哈、常明、徐元夢、巴海、法海、査弼納、蕭永藻、高成齢。
- ^ 参考:「九王奪嫡」の称は、康熙帝の存命中に「王」(親王または郡王) に冊封された者が9名中の数名に止まり、且つ皇二子・胤礽が冊封されたのは皇太子であって「王」ではない為、この点からは不適切。
- ^ a b 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 12-13, 一. 懊悩する老帝
- ^ 『清朝全史』, p. 635-636, 上巻「皇位承繼の紛爭」.
- ^ a b c 楊啓樵 1987, p. 115-116
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 12.
- ^ “ᠠᡤᡝ age”. 『五体清文鑑訳解』(和訳). 京都大学文学部内陸アジア研究所. p. 254 . "皇子"
- ^ “大 dà”. 超級クラウン中日辞典. 三省堂. "❷〘形〙(兄弟で) いちばん年上だ。"
- ^ a b c 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 13-16, 一. 懊悩する老帝
- ^ a b “聖祖本紀一 (康熙13)”. 清史稿. 6. 清史館
- ^ “列傳一 (孝誠仁皇后)”. 清史稿. 214. 清史館
- ^ “列傳七 (理密親王允礽)”. 清史稿. 220. 清史館
- ^ “康熙14年12月14日段11807”. 聖祖仁皇帝實錄. 58. 不詳
- ^ 参考:謨烈=宏謨と功烈。
- ^ “日表” (華語). 重編國語辭典修訂本. 中華民國教育部 . "3. 帝王的儀表。"
- ^ 蔡, 元培 (1917-9) (中文). 石頭記索隱. 商務印書館. p. 10 . "……胤礽生而有為皇太子之資格,故曰銜玉而生……"
- ^ a b 楊啓樵 1987, p. 17
- ^ a b c d e 楊啓樵 1987, p. 117-120
- ^ a b c d “索額圖”. 清史稿. 269. 清史館
- ^ a b c 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 19 次に現れた朋党の大親分がソエト (索額図) である。ソエトはやはり満洲の名族出身、ことに皇太子の亡き母皇后の叔父にあたる。……このソエトが自己の地位を一層強化するために、皇太子を抱きこんで後盾としたから、ことはすこぶる面倒になった。
- ^ a b 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 19-20, 一. 懊悩する老帝
- ^ “康熙29年7月24日段16287”. 聖祖仁皇帝實錄. 147. 不詳
- ^ “康熙37年3月2日段18381”. 聖祖仁皇帝實錄. 187. 不詳
- ^ 四阿哥胤禛 (雍正帝) 践祚後、「胤 yìn」は偏諱の対象となり、皇帝になり損ねた皇子らの名は「允 yǔn」に改められたが、雍正帝の信頼を得た十三阿哥胤祥だけは特別に「胤」の使用を允可された。
- ^ a b 稻葉岩吉(『清朝全史』)には皇太子・胤礽、大阿哥・胤禔 (直郡王)、三阿哥・胤祉 (誠郡王)、四阿哥・胤禛 (ベイレ)、八阿哥・胤禩 (ベイレ)、九阿哥・胤禟、十三阿哥・胤祥、十四阿哥・胤禵の都合八名が紹介されているが、十阿哥・胤䄉については触れられていない。また、「九子奪嫡」あるいはそれに相当する名称もみられない。九人のうちの一人としての十阿哥・胤䄉と「九子奪嫡」の名称は维基百科「九子夺嫡」より引用したが、典拠不詳。
- ^ a b c d e f “康熙47年9月4日段21353”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ a b 劉, 心武 (2005年5月). “帳殿夜警之謎”. CCTV.com. 中国中央電視台. 2023年12月24日閲覧。
- ^ a b 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 20-22, 一. 懊悩する老帝
- ^ “ちん【鴆・酖】”. 日本国語大辞典. 小学館
- ^ “聖祖本紀三”. 清史稿. 8. 清史館 . "九月乙亥,上駐布爾哈蘇台。丁丑,召集廷臣行宮,宣示皇太子胤礽罪狀,命拘執之,送京幽禁。己丑,上還京。丁酉,廢皇太子胤礽,頒示天下。"
- ^ a b “康熙47年9月25日段21370”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』 & loc一. 懊悩する老帝, p. 22-26.
- ^ 不詳。参考:同時代の人物で「輔国公・頼士」という名がみえる。
- ^ 参考:『清史稿』巻162に拠れば、太祖ヌルハチ→子・褚英チュイェン→孫・杜度→曾孫・杜爾祜→玄孫・敦達→来孫・普奇。
- ^ “康熙47年9月29日段21374”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ a b c “康熙47年10月2日段21377”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ “聖祖本紀三”. 清史稿. 8. 清史館 . "十一月……庚子,復胤禩貝勒。"
- ^ a b c 「-格隆」や「-噶卜楚」は何かしらの称号あるいは職階か。
- ^ “康熙47年10月15日段21388”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ a b “康熙47年9月28日段21373”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ a b c d “康熙48年4月15日段21511”. 聖祖仁皇帝實錄. 237. 不詳
- ^ “康熙47年10月30日段21398”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ “康熙47年11月1日段21399”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳
- ^ “康熙48年4月20日段21515”. 聖祖仁皇帝實錄. 237. 不詳
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』 & loc一. 懊悩する老帝, p. 26.
- ^ 聖祖仁皇帝實錄
- ^ “聖祖本紀三 (康熙48)”. 清史稿. 8. 清史館
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 26-28.
- ^ “聖祖本紀三”. 清史稿. 8. 清史館 . "九月……皇太子胤礽復以罪廢,錮於咸安宮。……十一月……丁未,以復廢皇太子胤礽告廟,宣示天下。"
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 28-30, 一. 懊悩する老帝.
- ^ “聖祖本紀三”. 清史稿. 8. 清史館 . "二月……檢討朱天保上疏請復立胤礽為皇太子,上於行宮親訊之曰:「爾何知而違旨上奏?」朱天保曰:「臣聞之臣父,臣父令臣言之。」上曰:「此不忠不孝之人也。」命誅之。"
- ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 30-32.
- ^ “顧実汗”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカ・ジャパン
- ^ “ガルダン (噶爾丹)”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカ・ジャパン
- ^ “ツェワン・アラプタン (策妄阿拉布坦)”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカ・ジャパン
- ^ a b 趙, 雲田. “三、达赖喇嘛开始掌管西藏政权”. In [|国家清史編纂委員会] (中文). 清代的达赖喇嘛. 清史镜鉴. 国家图书馆出版社
- ^ “康熙57年10月12日段23989”. 聖祖仁皇帝實錄. 281. 不詳
- ^ “千岁 qiānsuì”. 超級クラウン中日辞典. 三省堂. "〘名〙〈旧〉王公・太子・后妃をさす呼称。殿下。陛下。[参考] 皇帝を"万岁"と呼ぶのに対する表現。"
- ^ a b c d e f g h i “康熙47年9月4日段21353”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳
- ^ a b c d e f g 参考:二格、蘇爾特、哈什太、薩爾邦阿、杜默臣、阿進泰、蘇赫陳、倪雅漢は素性不詳ながら、『清史稿』巻220「理密親王允礽」には「允礽左右」(=胤礽の側近) と記載がある。一説にはその内のいづれかが胤礽と断袖の関係にあったとも (→参照「愛新覺羅胤礽」)。
- ^ a b “康熙57年1月20日段23783”. 聖祖仁皇帝實錄. 277. 不詳
- ^ “康熙40年6月27日段19345”. 聖祖仁皇帝實錄. 204. 不詳
- ^ “康熙57年2月18日段23804”. 聖祖仁皇帝實錄. 277. 不詳
- ^ 四阿哥・胤禛の養母・佟妃 (孝懿仁皇后) の弟で、「舅舅隆科多 (ロンコド叔父さん)」と呼ばれた。
- ^ a b “康熙53年11月26日段22939”. 聖祖仁皇帝實錄. 261. 不詳
- ^ 参考:全44話の内、20話が雍正王 (四阿哥) 時代、残りの24話が皇帝時代を描いている。
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