九子奪嫡 派閥闘争

九子奪嫡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 12:36 UTC 版)

派閥闘争

暗闘熾烈化

九名の皇子の中には勢力不足でほかの皇子の支持に廻る者が出始め、その結果、大きく5つの党派が形成された。即ち、❶依然として二阿哥・胤礽を支持する「太子党」、❷大阿哥・胤禔 (直郡王) を支持する「大千歲党」、❸三阿哥・胤祉 (誠郡王) を支持する「三爺党」、❹四阿哥・胤禛を支持する「四爺党」、❺八阿哥・胤禩を支持する「八爺党」である。九阿哥・胤禟、十阿哥・胤䄉、 十四阿哥・胤禵は八爺党に、十三阿哥・胤祥は四爺党にそれぞれ加わった。[24]

胤禩観相事件

八阿哥胤禩 (廉親王)

「胤礽はその行いの卑劣さ故に人望を失いましたが、張明徳という観相家 (人相見) に拠れば、第八皇子・胤禩は将来大成します。この際、胤礽を始末するなら、父上が自ら手をお下しになるには及びません。」[30]康熙帝は皇太子を廃位したものの、なおも二阿哥・胤礽の更生に一縷の希みを抱いていたため[31]、大阿哥胤禔のこの発言に大いに驚き、同時に義理を知らぬその愚昧さに憤りを顕わにした[30]

康熙47年 (1708) 9月、大阿哥・胤禔がその張明徳を捕らえ、刑部尚書らに引き渡した。康熙帝は、多くの人間がこの観相家と裏で関係していることを危惧し、張明徳を訊問させ、事実関係を調査させた。その結果、張明徳が、皇太子廃位以前に二阿哥・胤礽の暗殺を企てていたことが明らかになった。張明徳の供述に拠ると、順承郡王・長史阿禄に知遇を得た張明徳は、順承郡王・布穆巴、公・頼士[32]、公・普奇[33]に紹介され、更に布穆巴を経て大阿哥・胤禔と、普奇を経て八阿哥・胤禩とそれぞれ面識を得ていた。

康熙帝は諸皇子を呼び集めた。そして、清朝の臣下でありながら皇帝の玉座を覬覦し、その非望のために結党して皇太子殺害を企てたとして、八阿哥・胤禩を拘禁した。慌てた九阿哥・胤禟は、ここで弁護せずしてなんとすると十四阿哥・胤禵を慫慂し、八阿哥・胤禩の無実と釈放を訴えさせた。康熙帝は十四阿哥・胤禵の態度を見るや怒髪天を衝き、生かしておけぬとばかり胤禵に向かって佩刀を抜いた。五阿哥・胤祺が足にしがみつき懇願したことで命だけは赦されたものの、怒りの鎮まらぬ康熙帝は諸皇子に命じて十四阿哥・胤禵を折檻させ、九阿哥・胤禟ともども退出させた。[34]

大阿哥・胤禔は張明徳の事案についていち早く上奏し、順承郡王・布穆巴、公・頼士、公・普奇がその首謀者であると主張していた。ところが、同じく張明徳と面識があった八阿哥・胤禩は知っていながら上奏せず、臣下の道に悖るとして康熙帝の逆鱗にふれた。このとき胤禩はすでに監禁されていたため、康熙帝は布穆巴、頼士、普奇を捕らえて厳しく事実を問い糺すよう命じた。[35]

当初、張明徳は布穆巴の邸宅で頼士に紹介され、人相を観てほしいといわれて頼士の邸宅へ向かった。それを知った普奇は2人を自宅に呼び、そこで張明徳に皇太子殺害の計画をもちかけた。普奇は皇太子をひどく憎んでいた。布穆巴の邸宅に戻った張明徳は、布穆巴に事のあらましを伝えて加担を要請したが、布穆巴が拒否したため、大阿哥・胤禔に話をもちかけた。話を聞いた胤禔は布穆巴に対し、秘密にしておくよう釘をさした上で、張明徳を自宅に連行した。同じく張明徳と引き合わされた八阿哥・胤禩は、九阿哥・胤禟と十四阿哥・胤禵に張明徳の計画を話して聞かせたが、2人は気狂いもほどほどにせよと張明徳を追い出した。以上が順承郡王2名、頼士、皇子3名の供述に拠る事件の経緯であった。ただひとり普奇は取り調べに対し、根も葉もない事実無根の作り話に過ぎないと言下に否定した。[35]

康熙帝は一連の説明を承けて、順承郡王・布穆巴と長史阿禄、輔国公・頼士を無罪放免とし、首魁として普奇は宗室公の爵位を剥奪、八阿哥・胤禩は職務怠慢の廉でベイレの爵位を剥奪された (同年11月に復位[36])。事件の中心人物となった張明徳は見せしめとして凌遅刑に処され、事件に関与した者はその刑執行の立ち会いを命じられた。[35]

胤礽呪詛事件

三阿哥・胤祉の牧馬場に、呪術に長けた巴漢格隆[37]なる蒙古人ラマがいた。巴漢が大阿哥・胤禔の知遇を得たのち、胤禔が明佳噶卜楚[37]、馬星噶卜楚[37]という別の2人のラマと巴漢とを呼んで鳩合することが繁くなった為、康熙47年 (1708) 旧暦10月、不審に思った三阿哥・胤祉はことのあらましを奏上した。康熙帝はただちに巴漢、明佳、馬星の3人のラマと、大阿哥・胤禔の邸宅護衛を務めていた嗇楞と雅突とを拘束し、事情を聴取させた。巴漢らの供述により、廃太子となっていた二阿哥・胤礽に対して大阿哥・胤禔がラマに呪詛を行わせていたことが明らかとなり、供述に沿って床下を掘らせると、果たして十数箇所から呪詛に用いる道具が現れた。[38]

康熙帝はまたしてもひどく驚かされた。そもそも胤禔の取り巻きには無法者が少なくなかった。妄りに朝廷の情報を訊き出そうとする行儀の悪い宦官や護衛がいるかと思えば、[39]日頃から闘鶏のような遊びに耽り、腕力に恃んで金銭を巻き上げるなど無頼を働く者もいた。[40]胤禔自身、立場を弁えずに康熙帝の侍衛や執事を数多く殴打したり、廃位された二阿哥・胤礽の監視を康熙帝より仰せつかった際には、故意に必要以上の苦刑を与えるよう仕向け、その殺害を企図し、その時の関係者には責任を感じて首を吊った者さえ出た。[39]八旗の中には胤禔の教唆にのせられる愚か者が少なくなく、そのようなタワケ者が胤禔に附和雷同して事を起こせば取り返しがつかない。[40]康熙帝は大阿哥・胤禔を、無恥で残忍なヤクザ者と非難した。[40]

胤禔の生母・恵妃は不孝な息子を嘆き、法に則った処罰を康熙帝に奏請したが、康熙帝は処刑するには忍びず、[41]万一の事態も考えて胤禔を監禁すると、八旗から人員を派遣して胤禔の自宅を交替で監視させ、[40]同年旧暦11月、胤禔の直郡王の爵位を剥奪した。[42]事件に連座した蒙古人ラマ・巴漢格隆および明佳噶卜楚、馬星噶卜楚は、事件の首謀者として凌遅刑を言い渡された。直郡王府の護衛・嗇楞と雅突は、大逆罪であると知りながら胤禔の計画を実行した廉でやはり凌遅刑を言い渡され、両人の兄弟、子孫は斬首刑、妻女は貧民の身分に貶められた上で奴隷にされた。咎は両人の一族にも及んだ。官職に就く者は免黜の上で、鞭打ち100回と3か月間の晒し刑、更にその妻は黒龍江に送られ苦役に従事させられた[43]

胤礽の挙動や素行の異常さはもしかすると呪詛を受けた所為だったのではないか。康熙帝は次第に胤礽を不憫に思いはじめた[44]

皇太子復位

康熙帝の気持ちは再び二阿哥立太子へと傾き、大臣らの考えを探ろうと、帝位継承に相応しい皇子を推薦させた。康熙帝が期待したのは勿論、二阿哥・胤礽を推す声であった。しかし大臣らは申し合わせたように八阿哥・胤禩を薦挙した。このままでは八阿哥を立太子することになりかねない。慌てた康熙帝は更生を誓うことを条件に二阿哥・胤礽の監禁を解き、一方で、八阿哥・胤禩を支持する大臣らを、人の道を外れた皇太子を誰一人諌めようともせず、廃位されるや今度は八阿哥を担ぎ出すなど実に怪しからんと叱責した。「倡言シ胤禩ヲ立テ皇太子ト爲サムト欲スルハ殊ニ恨ムベキニテ、朕此ニ於テ忿恚ニ勝ヘズ。」[45]その中心人物と目された馬斉は死刑こそ免れたものの、閉門を言い渡された[46][47]

康熙48年 (1709) 3月、二阿哥・胤礽が再び立太子された。

立太子廃止

ところが康熙帝の願望むなしく皇太子は更生しなかった。またもその周りに官僚どもが集りはじめ、よからぬ噂が四方八方から出はじめた。康熙51年 (1712) 9月、康熙帝の訓戒を破りまたも結党した廉で、二阿哥・胤礽は咸安宮に拘禁され、11月、皇太子廃位が再び詔勅された[48][49]

康熙57年 (1718) 、康熙帝は突然、式部官に命じて皇太子に関する儀式について取り調べをさせた。官僚らはそれを知るや、帝はどうやら立太子を考えておわすらしいと早合点した。そのうちの一人、朱天保は今ぞとばかりに既に二度廃位された二阿哥・胤礽を再び皇太子にと奏請した。康熙帝は二度も子に裏切られたことで心に深い傷をおい、立太子については今後何人たりとも断じて口にしてはならぬと大臣らに言いつけてあった。「何故あえて朕の言いつけを破ってまで奏請するか」と問いただされた朱天保は「父にそう言うよう言われました」とあっさり自らの父を売った。それを聞いた康熙帝は「主に忠を尽くさず、親に孝さぬたわけ者め」と憤り、首を刎ねさせた。[50]子・天保のために命乞いをした朱都納は、その希いを聞き届けられなかったばかりか、我が子の斬首刑の立ち会いを命じられ、自らの死刑は免除された[51]


  1. ^ 参考:「九王奪嫡」の称は、康熙帝の存命中に「王」(親王または郡王) に冊封された者が9名中の数名に止まり、且つ皇二子・胤礽が冊封されたのは皇太子であって「王」ではない為、この点からは不適切。
  2. ^ a b 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 12-13, 一. 懊悩する老帝
  3. ^ 『清朝全史』, p. 635-636, 上巻「皇位承繼の紛爭」.
  4. ^ a b c 楊啓樵 1987, p. 115-116
  5. ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 12.
  6. ^ “ᠠᡤᡝ age”. 『五体清文鑑訳解』(和訳). 京都大学文学部内陸アジア研究所. p. 254. http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/p06/imageviewer/detail?dicId=55&imageFileName=254. "皇子" 
  7. ^ “大 dà”. 超級クラウン中日辞典. 三省堂. "❷〘形〙(兄弟で) いちばん年上だ。" 
  8. ^ a b c 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 13-16, 一. 懊悩する老帝
  9. ^ a b “聖祖本紀一 (康熙13)”. 清史稿. 6. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷6 
  10. ^ “列傳一 (孝誠仁皇后)”. 清史稿. 214. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷214#孝誠仁皇后 
  11. ^ “列傳七 (理密親王允礽)”. 清史稿. 220. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷220#理密親王允礽 
  12. ^ “康熙14年12月14日段11807”. 聖祖仁皇帝實錄. 58. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@10^2146587229^809^^^0211011011807^@@1828128886#top 
  13. ^ 参考:謨烈=宏謨と功烈。
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  15. ^ 蔡, 元培 (1917-9) (中文). 石頭記索隱. 商務印書館. p. 10. https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/91/SSID-13234755_石頭記索隱.pdf. "……胤礽生而有為皇太子之資格,故曰銜玉而生……" 
  16. ^ a b 楊啓樵 1987, p. 17
  17. ^ a b c d e 楊啓樵 1987, p. 117-120
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  19. ^ a b c 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 19 次に現れた朋党の大親分がソエト (索額図) である。ソエトはやはり満洲の名族出身、ことに皇太子の亡き母皇后の叔父にあたる。……このソエトが自己の地位を一層強化するために、皇太子を抱きこんで後盾としたから、ことはすこぶる面倒になった。
  20. ^ a b 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 19-20, 一. 懊悩する老帝
  21. ^ “康熙29年7月24日段16287”. 聖祖仁皇帝實錄. 147. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@13^1994558031^809^^^0211011016287^@@1414442683#top 
  22. ^ “康熙37年3月2日段18381”. 聖祖仁皇帝實錄. 187. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@6^347848097^809^^^0211011018381^@@538274823#top 
  23. ^ 四阿哥胤禛 (雍正帝) 践祚後、「胤 yìn」は偏諱の対象となり、皇帝になり損ねた皇子らの名は「允 yǔn」に改められたが、雍正帝の信頼を得た十三阿哥胤祥だけは特別に「胤」の使用を允可された。
  24. ^ a b 稻葉岩吉(『清朝全史』)には皇太子・胤礽、大阿哥・胤禔 (直郡王)、三阿哥・胤祉 (誠郡王)、四阿哥・胤禛 (ベイレ)、八阿哥・胤禩 (ベイレ)、九阿哥・胤禟、十三阿哥・胤祥、十四阿哥・胤禵の都合八名が紹介されているが、十阿哥・胤䄉については触れられていない。また、「九子奪嫡」あるいはそれに相当する名称もみられない。九人のうちの一人としての十阿哥・胤䄉と「九子奪嫡」の名称は维基百科「九子夺嫡」より引用したが、典拠不詳。
  25. ^ a b c d e f “康熙47年9月4日段21353”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@21^1356492679^809^^^0211011021353^@@1339420594#top 
  26. ^ a b 劉, 心武 (2005年5月). “帳殿夜警之謎”. CCTV.com. 中国中央電視台. 2023年12月24日閲覧。
  27. ^ a b 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 20-22, 一. 懊悩する老帝
  28. ^ “ちん【鴆・酖】”. 日本国語大辞典. 小学館 
  29. ^ “聖祖本紀三”. 清史稿. 8. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷8. "九月乙亥,上駐布爾哈蘇台。丁丑,召集廷臣行宮,宣示皇太子胤礽罪狀,命拘執之,送京幽禁。己丑,上還京。丁酉,廢皇太子胤礽,頒示天下。" 
  30. ^ a b “康熙47年9月25日段21370”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@25^1382741983^809^^^0211011021370^@@2107082686#top 
  31. ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』 & loc一. 懊悩する老帝, p. 22-26.
  32. ^ 不詳。参考:同時代の人物で「輔国公・頼士」という名がみえる。
  33. ^ 参考:『清史稿』巻162に拠れば、太祖ヌルハチ→子・褚英チュイェン→孫・杜度→曾孫・杜爾祜→玄孫・敦達→来孫・普奇。
  34. ^ “康熙47年9月29日段21374”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@7^1750034645^809^^^0211011021374^@@998604001#top 
  35. ^ a b c “康熙47年10月2日段21377”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@25^1382741983^809^^^0211011021377^@@1796015939#top 
  36. ^ “聖祖本紀三”. 清史稿. 8. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷8#康熙47年. "十一月……庚子,復胤禩貝勒。" 
  37. ^ a b c 「-格隆」や「-噶卜楚」は何かしらの称号あるいは職階か。
  38. ^ “康熙47年10月15日段21388”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@25^1382741983^809^^^0211011021388^@@99414832#top 
  39. ^ a b “康熙47年9月28日段21373”. 聖祖仁皇帝實錄. 234. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@7^1750034645^803^^^8021101100060237000100230001^P@@1209707456#top 
  40. ^ a b c d “康熙48年4月15日段21511”. 聖祖仁皇帝實錄. 237. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^598284251^807^^^8021101100060240000100020012^1@@1597281173#top 
  41. ^ “康熙47年10月30日段21398”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@7^1750034645^802^^^90211011000602380001000100230001@@1943545937#top 
  42. ^ “康熙47年11月1日段21399”. 聖祖仁皇帝實錄. 235. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@7^1750034645^803^^^90211011000602380001000200010001^N@@657770143#top 
  43. ^ “康熙48年4月20日段21515”. 聖祖仁皇帝實錄. 237. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@7^1750034645^809^^^0211011021515^@@1482650372#top 
  44. ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』 & loc一. 懊悩する老帝, p. 26.
  45. ^ 聖祖仁皇帝實錄
  46. ^ “聖祖本紀三 (康熙48)”. 清史稿. 8. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷8#康熙48年 
  47. ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 26-28.
  48. ^ “聖祖本紀三”. 清史稿. 8. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷8. "九月……皇太子胤礽復以罪廢,錮於咸安宮。……十一月……丁未,以復廢皇太子胤礽告廟,宣示天下。" 
  49. ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 28-30, 一. 懊悩する老帝.
  50. ^ “聖祖本紀三”. 清史稿. 8. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷8. "二月……檢討朱天保上疏請復立胤礽為皇太子,上於行宮親訊之曰:「爾何知而違旨上奏?」朱天保曰:「臣聞之臣父,臣父令臣言之。」上曰:「此不忠不孝之人也。」命誅之。" 
  51. ^ 『雍正帝 : 中国の独裁君主』, p. 30-32.
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  53. ^ “ガルダン (噶爾丹)”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカ・ジャパン. https://kotobank.jp/word/ガルダン%28噶爾丹%29-47711#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 
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  59. ^ a b c d e f g 参考:二格、蘇爾特、哈什太、薩爾邦阿、杜默臣、阿進泰、蘇赫陳、倪雅漢は素性不詳ながら、『清史稿』巻220「理密親王允礽」には「允礽左右」(=胤礽の側近) と記載がある。一説にはその内のいづれかが胤礽と断袖の関係にあったとも (→参照「愛新覺羅胤礽」)。
  60. ^ a b “康熙57年1月20日段23783”. 聖祖仁皇帝實錄. 277. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@9^1146467442^809^^^0211011023783^@@411414481#top 
  61. ^ “康熙40年6月27日段19345”. 聖祖仁皇帝實錄. 204. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@9^1146467442^809^^^0211011019345^@@1066495474#top 
  62. ^ “康熙57年2月18日段23804”. 聖祖仁皇帝實錄. 277. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@9^1146467442^809^^^0211011023804^@@1129633033#top 
  63. ^ 四阿哥・胤禛の養母・佟妃 (孝懿仁皇后) の弟で、「舅舅隆科多 (ロンコド叔父さん)」と呼ばれた。
  64. ^ a b “康熙53年11月26日段22939”. 聖祖仁皇帝實錄. 261. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@1^1490747978^809^^^0211011022939^@@1715120836#top 
  65. ^ 参考:全44話の内、20話が雍正王 (四阿哥) 時代、残りの24話が皇帝時代を描いている。


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