三河国
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三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部[1]。
注釈
出典
- ^ 三河国百科事典マイペディア
- ^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・19頁。
- ^ 平凡社マイペディア、愛知県埋蔵文化財センター、安城市埋蔵文化財センター
- ^ 石神遺跡木簡に記載あり
- ^ 令和6年2月21日文部科学省告示第12号
- ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 124-131。
- ^ 1264年の史料に「一宮領内麻宇田村」、『三河物語』に「一ノ宮、市之宮」、元禄14年の三河国絵図に「一之宮村」、江戸後期の三河国図に「一之宮」、天保8年の三河国全図に「一宮」等の記載がある。
- ^ 新編岡崎市史編集委員会 1993, pp. 399–400.
- ^ 新編岡崎市史編集委員会 1993, p. 13.
- ^ 新編岡崎市史編集委員会 1993, p. 288.
- ^ a b 【三河の語源】『愛知県の地名』(日本歴史地名大系23 東京:平凡社, 1981)568頁にある村瀬正章、歌川学の説による。レオン・パジェス(1814-1886)の『日本切支丹宗門史』下巻(岩波文庫 東京:岩波書店, 1940)の1631年の項、註4でも「三河、「御油吉田」と列挙しているのを見ると、矢作川周辺を「三河」と言っていたと考えられる(以上、南山大学図書館カトリック文庫通信より)。
- ^ 三河国を東西に分割して、西三河、東三河と呼称したことがわかる確実な史料は、徳川実紀;嘉永2年(1849年)である。「是より先三河國帰順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次。石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の数正にゆずり。」
- ^ 参考文献の2、1178-1179頁・「近世大名配置表」による。
- ^ a b 新編岡崎市史編集委員会 1993, p. 570.
- ^ 新編岡崎市史編集委員会 1993, p. 16.
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