ロングイェールビーン 歴史

ロングイェールビーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/24 09:38 UTC 版)

歴史

スヴァールバル諸島は1596年にオランダ人探検家のウィレム・バレンツが発見した。17世紀前半、ヨーロッパ各国がスヴァールバル諸島での捕鯨権をめぐって抗争になった。その後デンマーク=ノルウェーイギリスが領有権を主張したが、どちらも実効支配することはなく無主地のままであった。

炭鉱以前

19世紀にアドベント湾を訪れた人々は、主に観光目的だった。最初の旅行記は1807年に遡り、それ以来、小型船の所有者や船を借りた者たちが多く訪れている。1893年にはハンブルク・アメリカ航路の客船コロンビア(7600トン)がアドベント湾を訪れている。これは100人の乗客と17人編成のオーケストラを乗せた豪華な客船だった。ノルウェーの船主でスヴァールバールへの観光船を運航する者もあったが、外国籍の船の方が数は多かった。1896年、現在空港がある近くのHotellneset(ホテル岬の意)にホテルが建てられた。経営者はVesteraalens汽船会社でノルウェー沿岸航路を確立したRichard Withであった。

17世紀の捕鯨時代にはすでにスヴァールバルに石炭鉱床があることは知られていたが、トロムソ出身の船乗りツァハリアセン(Søren Zachariassenがこの島の石炭産業の先駆者だと考えられている。ツァハリアセンは1899年の夏にイース・フィヨルドを挟んで北側のBohemannesetなどから60立方メートルの石炭をトロムソへ運んだ。ただツァハリアセンの石炭はモナコ大公アルベール1世の遊行船で使われたりもしているが、結局彼は経済的な利益を上げることはできなかった。

アメリカ時代

炭鉱2b「サンタクロース」

アメリカ人実業家ジョン・マンロー・ロングイヤーとフレデリック・エイヤー(Frederick Ayer)が設立した北極石炭会社が操業していた10年間(1906年~1915年)を「アメリカ時代」と呼ぶ。

1900年、トロンハイムの実業家ネス(Henrik Næss)ほか3人がKulkompagniet Trondhjem-Spitsbergen(トロンハイム・スピッツベルゲン石炭会社)を設立し、この地の石炭鉱床を占有するために8名の人間を送り込んだ。しかしほぼ同時期に石炭採鉱に詳しい外国人らが周辺の石炭鉱床を占有し争奪戦を繰り広げていたため、ネスらは権利や資産を売って撤退することにした。

一方ロングイヤーは、1901年家族とともにミシガンからスヴァールバル諸島への船旅をし、スピッツベルゲン島南部の炭鉱やアドベント湾近くの石炭露頭を見て興味を持っていた。彼は1903年に再びアドベント湾を訪れ、ネスの会社がHotellneset近くで採集したサンプルをアメリカに持ち帰った。石炭は良質で事業可能性はあったが、法的な条件が不明瞭な地に投資することには躊躇した。1904年ノルウェー外務省がスピッツベルゲン島は無主の地であると確認した後に契約が成立。ロングイヤーとエイヤーはボストンに北極石炭会社(The Arctic Coal Company; ACC)を設立し、ネスの会社は18000クローネの現金と北極石炭会社の株式50000クローネを得た。

当初採鉱事業はロングイヤーの甥マンロー(William D. Munroe)に任されていた。マンローは1905年に現地調査を行い、翌1906年にHotellnesetのホテルに陣取って作業をはじめ、バラックやリフトを設置し石炭層65メートルほどを採掘した。ところが1907年にマンローが難破して死亡したため、ロングイヤーがボストンから文書と電信で指示を出し実質的に採鉱に関わることになる。1910年頃には非公式ながらしばしばLongyear Cityと呼ばれるようになり、これが現在のロングイェールビーンの名の由来(byenはノルウェー語で街の意)である。

鉱夫は通年で200~300名、夏場にはその倍が働いており、その大部分はノルウェー本土やスウェーデンから来ていた。鉱夫たちの住環境は劣悪で、供給が乏しいことから食事や衛生状態もひどく、単に本土の採鉱場や建設現場より賃金がよいというだけの理由で集まっていた。一方管理するのはイギリス人やアメリカ人であり、文化の違いから不満が募った。1912年夏には、サンディカリスムを信奉するスウェーデン人が中心となって大規模なストライキが起きた。

1913年夏には年間産出量が3万トンになり、第2炭鉱も開削された。しかし技術的な問題、低下する石炭価格、労働争議、あるいは船の管理、資産税、電信中継局といったノルウェー当局との間の問題に悩まされ、大幅な赤字ですぐに利益が出る見込みもなかった。そのうえ第一次世界大戦がはじまると、銀行が融資をやめ、補修部品が入手困難になり、食料価格も上昇した。結局1915年9月に北極石炭会社は操業をやめ全ての従業員を解雇した。10年間に350万クローネ[3] が投資され総産出量は20万トンだった。

ノルウェー時代

1916年北極石炭会社がノルウェー資本に売却され、大ノルウェー・スピッツベルゲン石炭会社(Store Norske Spitsbergen Kullkompani; SNSK)が経営するようになった。当時SNSKは私企業であったが、ノルウェー政府に経済的に依存していた。さらにスヴァールバル条約によってノルウェーの領有権が確立したことで、名実共にノルウェー時代の幕開けとなる。

ロングイヤー・シティの操業が止まった後、ノルウェー中央銀行(Centralbanken for Norge)や地質学専門家Adolf Hoelといった様々な関係者が参加しその資産を売却することになった。 1916年、ノルウェーの8つの銀行、電気化学工業のElkemとHydro、そして首相のグンナル・クヌードセン英語版を株主とするノルウェー・スピッツベルゲン・シンジケート(Det Norske Spitsbergensyndikat)が設立され、北極石炭会社を350万クローネで買収する。さらにロシア資本が目を付けていたGrønfjordenの操業権も買収し、スピッツベルゲン島に合わせて1200 km²を獲得した。これはスヴァールバル諸島に対するノルウェーの経済的支配権を固める意味できわめて重要な取引だった。しかしあくまで権利を買うために作られたシンジケートであって、採鉱活動を実施することは意図されていなかったので、SNSKが設立されてこれに資産を売却した。

第一次世界大戦のため石炭価格が高騰しており、SNSKの経営は当初好調だった。最初の年の利益は100万クローネであり、配当金が支払われた。しかし1920年に第1炭鉱で粉塵爆発が起きて操業を続けられなくなると、SNSKは深刻な経営危機に陥ってノルウェー政府からの経済的支援が必要になった。このころSNSKに限らず各社は石炭産出について非常に楽観的だった。政治的経済的な動機があったことも理由の1つだが、鉱床探査や操業条件の見積もりが不正確であったこともある。そのため戦後石炭価格が低下すると、多くの企業が負債を作ることになった。しかしノルウェーのスヴァールバル諸島の領有権は確定しておらず、領有権を主張するために存在感を示すことが重要だったため、政府は各社を援助した。1925年にスヴァールバル条約が発効すると、ノルウェー当局は世界的な不況を鑑みてSNSKのロングイェールビーンでの活動に集中することに決め、BjørnøenやKings Bay Kull Companiといったノルウェーの石炭会社は操業を停止した。

第二次世界大戦

1943年9月8日にロングイェールビーンを砲撃した戦艦シャルンホルスト。この艦は同年12月26日にノールカップの北およそ60海里で12基の魚雷により沈められ、1800名の乗組員のうち救助されたのは36名のみだった。

第二次世界大戦中、ロングイェールビーンの炭鉱は1941年夏まで通常どおり操業していた。しかし1941年9月3日、在ロンドン・ノルウェー亡命政府と連合国軍の決定によりスヴァールバルの住民は全員イギリスに避難した。同時に石炭や石油の備蓄、発電所や無線局といった戦略的な対象は破壊された。

翌1942年春に自由ノルウェー軍はロングイェールビーンの炭鉱を再開させるフリサム作戦ノルウェー語版を実行する。この作戦の参加者の多くはかつての炭鉱労働者たちであり、指揮官はSNSKの社長であったアイナル・スヴェルドルップノルウェー語版中佐だった。しかし輸送船はバレンツブルク沖でドイツ空軍の爆撃をうけ、スヴェルドルップほか12名が死亡。生き残った70名はバレンツブルクで越冬し、翌1943年7月にようやく救助された。連合国軍は増援部隊を送りロングイェールビーンなどに駐留することになった。

一方ドイツ海軍は1943年9月シチリア作戦ドイツ語版を実行。戦艦ティルピッツシャルンホルスト、駆逐艦9隻を送り、スピッツベルゲン島を9月6日から9日まで占拠した。ロングイェールビーンは9月8日の戦艦シャルンホルストの砲撃により火が付き、最も奥にあった集落Sverdrupbyen以外は焼けてしまった。

戦争被害によりSNSKはさらなる経営危機に見舞われ、社長のHilmar Rekstenはノルウェー政府が戦争被害を代償すべきだと主張した。そこで1943年1944年1946年には政府が融資をし、1945年の民間融資には政府保証をつけた。1948年、SNSKに対し1650万クローネの戦災保険が支払われ、ロングイェールビーンの炭鉱は操業を再開する。操業の合理化に取り組んだ結果、1963年には石炭産出量は年間40万トン近くになり、これは20年ほどで枯渇するペースだった。そのため1970年代になるとSveagruvaの石炭鉱床の調査がはじまった。

近代化

街並み

20世紀前半のロングイェールビーンは私企業SNSKによる企業統治が行われていた。石炭を採掘することだけでなく、住居や食品日用品の供給、通信手段の整備なども経営のうちであった。一方ほとんどの従業員が家族を本土に残してきており、労働者がバラック小屋で暮らす男社会であった。つまり石炭産出だけを目的とした社会であり、そこへの投資はSNSKにとっての必要性とSNSKの経済力とで決まっていたのである。1925年に領有権が確定した際にも、スヴァールバルを独立の県ないし自治体にするという提案は国会で支持されず、代わりに政府の代理人たる総督による特別な行政体制が選ばれた。1960年代を待たずに近代化・民主化の要求が出始めたが、開発をコントロールするという点が重視され、地方自治の導入は時勢に合わないと考えられた。

1970年代になるとノルウェー政府はスヴァールバルの統治に力を入れ始める。1971年、中央および当地の行政に対する諮問機関としてスヴァールバル地域審議会(Det stedlige svalbardråd)が設けられ、住民にとって重要な問題を取り上げることができる場となった。1976年ノルウェー政府はSNSKの株式を取得し国営化した。スヴァールバルの予算は1971年から1985年で7倍になった。スヴァールバル地域審議会は1981年スヴァールバル理事会(Svalbardrådet)へと発展したが、地方自治に関しては1980年代を通じて大きな変化はなかった。

1990年代初頭まではすべてが炭鉱中心に回っていたが、次第にノルウェー本土の田舎町とあまり変わらない、家族が暮らす場所へと変わり始めた。1995年の国会決議を経て、スヴァールバル理事会の代わりに選挙による議会が統治する地域行政府(lokalstyre)を創設するという政府案が1999年に示された。この自治体の権限は近隣の居住地を含む土地利用計画に限られ、条約や環境に関連した問題については除外された。地域行政府は2002年に成立したが、実際には住民の大半が自治の導入に反対していた。

今日では観光、研究、高等教育を含む様々な仕事があり、水泳プール、体育館、飲み屋、ホテル、映画館などの様々な施設がある。石炭採掘にはのべ労働量の半分が充てられておりかつてより盛んになっているほどであるが、主な炭鉱はSveagruvaに移っており、従業員はロングイェールビーンから飛行機で通っている。ロングイェールビーン周辺には石炭産出関連の施設が残っている。第二次世界大戦で焼き払われたため多くは戦後のものであるが、中にはアメリカ時代からのものもある。

2021年1月、ノルウェー側の石炭採掘会社が石炭の採掘を完全に停止すると発表した[4]

年表

  • 1901年 - John M. Longyear初めてスヴァールバルを訪れる
  • 1904年 - John M. Longyearと共同経営者のFrederic AyerがTrondheim Spitsbergen Coal Companyを買収する
  • 1905年 - Adventdalenでの試掘始まる
  • 1906年 - 第1炭鉱開く。Longyear Cityができ越冬が始まる。
  • 1918年 - スペイン風邪で鉱夫7名が死亡
  • 1920年 - 第1炭鉱での粉塵爆発により26名が犠牲に。内国伝道団が子供の教育のため牧師を派遣する。
  • 1921年 - 初代の教会ができる
  • 1925年 - John Gerckens Bassøeがスヴァールバル総督に就任
  • 1941年 - 住民疎開
  • 1943年 - 戦艦Scharnhorstによる砲撃
  • 1946年 - Nybyenできる
  • 1948年 - Svalbard Postenの創刊号が壁新聞として貼り出される
  • 1949年 - 本土との電話回線開通
  • 1952年 - 第2炭鉱での爆発事故により6名が犠牲に。
  • 1958年 - 第1炭鉱閉鎖
  • 1965年 - 最初の保育園ができる
  • 1971年 - 第3炭鉱操業開始。スヴァールバル地域審議会できる
  • 1974年 - 常設の空港ができる(開港は翌年)
  • 1976年 - 国がSNSKの株式を取得
  • 1978年 - 本土との衛星回線開通
  • 1981年 - 本土の自動電話交換網に接続。スヴァールバル理事会できる。
  • 1982年 - 政府が病院と医療サービスを取得
  • 1984年 - NRKのテレビが直接放送される
  • 1985年 - ロータリークラブライオンズクラブによる夜間チャーター便が就航
  • 1995年 - 住民登録制度はじまる
  • 1996年 - EISCATスヴァールバルレーダー開設。第3炭鉱枯渇。
  • 2002年 - Longyearbyen地域行政府が成立
  • 2003年 - 本土との光ファイバーケーブルが接続される
  • 2006年 - Svalbard research park開設
  • 2007年 - Svalbard空港に新ターミナルができる
  • 2008年 - ロングイェールビーンの南100kmを震源とする地震(M6.2)(2月21日)
  • 2021年 - SNSKがロングイェールビーンにおける石炭の採掘を完全に停止すると発表(1月)

  1. ^ Dagmar Hagen & Tommy Prestø (2007). Biologisk mangfold - temarapport som grunnlag for arealplan for Longyearbyen planområde. Norsk institutt for naturforskning 
  2. ^ Longyearbyen Climate Guide, Svalbard”. Weather2Travel. 2010年6月14日閲覧。
  3. ^ ちなみに1920年のノルウェーの歳入が1250万クローネであった
  4. ^ https://www.politico.eu/article/coal-phaseout-reaches-remote-arctic-archipelago-svalbard-norway/
  5. ^ Kristin Straumsheim Grønli (2006年12月13日). “Øyet i himmelen laster ned på Svalbard”. Forskning.no. 2007年12月9日閲覧。
  6. ^ The Seed Bank Atop the World. latimes.com. Retrieved October 12, 2007.






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