フランソワ・アラゴ
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政治家
政治的には一貫して共和主義を支持していたアラゴは1830年に代議院議員に選ばれ、雄弁さと科学知識を背景として公共教育、発明者への褒賞、科学技術振興などに成果を残した[1]。たとえば写真を発明したジャック・ダゲールに対する褒賞、フェルマーやラプラスの著作の出版、鉄道および電信の発展などは彼の主張によるものである[1]。
同1830年にはパリ天文台長にも任命され、議員としての立場を利用して予算をつけさせ、修復と機器購入にあてた[1]。同年ジョゼフ・フーリエの後任として科学アカデミーの終身会長にも選ばれた[1]。アラゴはその仕事に打ち込み、それによって多くの友人ができ、自身の名声も高めることになった[1]。会長としてアラゴは亡くなった会員の業績を称えることも仕事だと認識しており、知識の幅広さや頭の回転の速さをそれに役立てた[1]。
1834年、アラゴはスコットランドを再度訪問し、エディンバラで開催された英国科学振興協会の会合に出席した[1]。その後1848年まで彼は研究中心の比較的平穏な生活を送ったが、2月革命に際しては研究を離れて臨時政府に参加した[1]。彼は海軍・植民地大臣と陸軍大臣を務めたが、これら2閣僚職の兼任はアラゴがはじめてだった[1]。アラゴは前者として海軍の制度改革を行い、さらにフランス植民地での奴隷制の全廃を成し遂げた[1]。
1848年5月10日、行政権力委員会(フランス共和国の最高機関)の委員に選ばれ、さらに5月11日に議長(臨時政府首相)となり6月24日まで務めた。[要出典]1851年にルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)がクーデターで権力を握り、翌年5月初めに政府全職員に対し忠誠の誓約を求めると、アラゴはこれを拒否して天文台長の職を辞した[1]。しかし、ナポレオン3世はフランスの栄光を象徴する学者を失うことを嘆き、例外を設けることにした[1]。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 2 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 312–313.
- ^ 高田紀代志 著、中山茂 編『天文学人名辞典』 別冊(初版第一刷)、恒星社〈現代天文学講座〉、1983年3月25日、14頁。 NCID BN00165458。
- ^ Hellemans, Alexander; Bryan Bunch (1988). The Timetables of Science. New York, New York: Simon and Schuster. pp. 261. ISBN 0671621300.
- ^ "Arago; Dominique Francois Jean (1786 - 1853)". Record (英語). The Royal Society. 2011年12月11日閲覧。
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