ファーティマ朝のエジプト征服
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ファーティマ朝の準備
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統治の最初の数年の間、ムイッズはマグリブ西部への支配の拡大と、シチリア島と南イタリアにおけるビザンツ帝国との戦争に専念していたが、歴史家のポール・E・ウォーカーによれば、ムイッズは、明らかに「その治世の初期からエジプトの征服を意図していた」[37]。ムイッズはすでに965年もしくは966年に食糧の備蓄とエジプトに対する新たな侵略の準備を始めていた[49]。965年までにジャウハル・アッ=スィキッリーの指揮の下でムイッズの軍隊がコルドバを首都とする後ウマイヤ朝に勝利を収めてその利権を奪回し、かつて910年代と920年代にファーティマ朝の将軍によって征服された現代のアルジェリア西部とモロッコに対するファーティマ朝の支配を回復させた。シチリア島ではファーティマ朝の総督が島内の最後のビザンツ帝国の拠点を制圧してイスラーム教徒による島の征服を完了し、さらにこれに応じて派遣されたビザンツ帝国の遠征軍を撃退した[50][51]。これらの成功に続いて967年にはファーティマ朝とビザンツ帝国の間で停戦が成立し、両国は余力を残して東方における計画を自由に追求できるようになった。ビザンツ帝国はアレッポのハムダーン朝に対する計画を進め、一方でファーティマ朝はエジプトに対する計画を進めた[30][52]。ファーティマ朝のカリフは野心を隠さず、交渉中にビザンツ帝国の大使に対して次の交渉はエジプトで行われるであろうと豪語すらしていた[37][53]。
軍事面の準備
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ムイッズは以前のカリフたちの下で性急に進められた遠征とは異なり、エジプトへの困難な試みに対して注意深く準備を進め、莫大な資源と時間を注ぎ込んだ[39]。15世紀のエジプトの歴史家のマクリーズィーによれば、カリフはこの目的のために24,000,000ディナールの金貨を費やした。ヤーコフ・レフはこの数字を「額面通りに受け取るべきではないだろう」と指摘しているが、それでもこの事業への「ファーティマ朝が利用できた資源についての考察を与えている」と述べている[54]。ムイッズがこのような莫大な額を積み立てることができたという事実は、ファーティマ朝統治下の各地域がサハラ以南との交易に課せられた税金によって豊かな財政状態にあったことを示している。ファーティマ朝の年間歳入の半分に相当するおよそ400,000ディナールが951年から952年にかけてのシジルマーサの国境貿易から単独でもたらされ、サハラ以南のアフリカから大量の高品質の金が輸入されていた[55][注 2]。これらの資金は目前に迫った遠征のために課された968年の特別税によってさらに増強された[29]。
マグリブで勝利を収めたばかりのジャウハルは、966年にクターマ族の本拠地である小カビリアへ派遣され、そこで兵士を募り、資金を調達した。968年12月にジャウハルは新しいベルベル人の部隊と500,000ディナールを携えてファーティマ朝の首都に帰還した[56]。バルカの総督はエジプトへの道を通過するにあたっての準備を進めるように命じられ、新しい井戸がその道に沿って一定の間隔で掘られた[39][56]。この細心の注意を払った準備もファーティマ朝政権の軍事力と安定性の向上を反映している。ヤーコフ・レフが指摘するように、「最初にエジプトに向けて派遣された軍隊は規律が欠如しており、エジプトの住民に恐怖を与えていた」。一方、ムイッズによって作り上げられた軍隊は「非常に大規模で、高い俸給を与えられ、規律が保たれていた」[57]。この冒険的な事業は遠征の総指揮権を与えられたジャウハルの手に委ねられた。カリフは行軍のルートに沿った町の統治者はジャウハルの面前で降りてその手に口づけをしなければならないと命じた[29]。
エジプトにおける宣伝工作
イスラーム世界では10世紀初頭に反アッバース朝を掲げ、ファーティマ朝の母体となったイスマーイール派の教宣活動が広まり、イスマーイール派の支持者はアッバース朝の宮廷にまで浸透していた[58][注 3]。後に初代のファーティマ朝のカリフとなるイスマーイール派の指導者のアブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフは、904年に独立政権を築いていたトゥールーン朝が統治するエジプトへ避難場所を求め、アッバース朝が905年の初頭にエジプトの支配を回復するまで、およそ1年間フスタートで支持者とともに姿を隠していた。その後、アル=マフディー・ビッラーフが西方のシジルマーサへ逃れていた間、協力者のアブー・アブドゥッラー・アル=シーイーが他の地域の教宣活動のネットワーク(ダーワ)との連絡を維持するために残された[60]。
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エジプトにおけるファーティマ朝の工作員とその同調者の活動は、919年の二度目の侵攻に至るまでの間の917年か918年に著された史料によってその存在が裏付けられている。エジプトの総督は侵攻してきたファーティマ朝の軍隊と連絡を取り合っていた数人の工作員を拘束した[61]。エジプトへの初期の侵略の試みが失敗に終わった後、ファーティマ朝はより一層宣伝行為と政権の転覆に向けた活動に重点を移すことになった[21]。フスタートは民族的、宗教的に多様な住民を抱える重要な商業の中心地であったため、ファーティマ朝の工作員はフスタートで容易に浸透することができた[62]。驚くべきことに、ファーティマ朝の教宣員の代表団はカーフールによって公に受け入れられ、ダーワは組織を立ち上げ、フスタートで公然と活動することが認められた。組織の工作員は「ファーティマ朝の支配はカーフールの死後にのみ始まるであろう」と強調した[63]。
ダーワの指導者で裕福な商人であったアブー・ジャアファル・アフマド・ブン・ナスルは、ワズィールのジャアファル・ブン・アル=フラートを含む地元の支配層との友好的な関係を維持しており、おそらくその一部には賄賂が贈られていた[39][63]。安定をもたらし、正常な商取引が回復することに特別な関心を抱いていた都市の商人は、アフマド・ブン・ナスルの発言にとりわけ敏感であった[31]。さらに一部の史料では、摂政のアル=ハサン・ブン・ウバイドゥッラーはアフマド・ブン・ナスルの影響下にあったと主張している。フスタートで軍隊が暴動を起こした時、アフマド・ブン・ナスルはアル=ハサンにムイッズへ介入を要請するように助言し、暴動の影響に関する書簡を直接カリフへ送った[56]。その間にアフマド・ブン・ナスルを補佐していたジャービル・ブン・ムハンマドが都市の居住区にダーワを組織し、予期されるファーティマ朝の軍隊の到来の際に掲げることができるようにファーティマ朝の旗を配布した[64]。また、ファーティマ朝は政敵のジャアファル・ブン・アル=フラートによって投獄される前にワズィールになる野心を抱いていたユダヤ人改宗者のヤクーブ・ブン・キッリスによる支援も受けた。ヤクーブ・ブン・キッリスは968年9月にイフリーキヤへ逃亡してそこでイスマーイール派に改宗し、エジプトの情勢に関する知識をもってファーティマ朝を助けた[65]。イフシード朝の支配層は完全に蝕まれた状態にあった。一部のトゥルク人の将軍たちがムイッズに書簡を送ってエジプトを征服するように求めたと記録されているが[66]、現代の一部の歴史家はジャアファル・ブン・アル=フラートでさえファーティマ朝を支持する一派に加わっていたのではないかと疑っている[67]。
これらの出来事に関して、現代の歴史家は実際の侵攻に先立ったファーティマ朝の「巧みな政治宣伝」(マリウス・カナール)の重要性を強調している[68]。飢饉がエジプトに与えた影響とイフシード朝政権の政治危機も相まって、この「心理的、政治的な準備のための集中的な期間」(ティエリ・ビアンキ)は軍事力よりも決定的な影響を与えたことが明らかとなり[69]、征服が迅速かつ多くの困難を伴うことなく実行されることを可能にした[29][68]。さらに、ビザンツ帝国がシリア北部で前進を続けているという情報によって引き起こされた968年の恐慌状態もファーティマ朝の目標を助けることにつながった。その一方でアッバース朝と連携した地域内のイスラーム勢力によるビザンツ帝国への抵抗は貧弱なものであり、ビザンツ帝国は自由にシリア北部を襲撃して回り、多数のイスラーム教徒の捕虜を獲得した[70]。
注釈
- ^ カルマト派は最終的にファーティマ朝を誕生させたイスマーイール派と同じ地下運動に起源を持っているものの、後に初代のファーティマ朝のカリフとなるアブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフが導入した革新的な教義を受け入れず、899年にその一派から離脱した[25][26]。同時代のイスラーム教徒による史料と一部の現代の学者はカルマト派がファーティマ朝と秘密裏に連携して攻撃していたと考えているが、この考えは反証を挙げられている[27]。ファーティマ朝は各地に散在するカルマト派の共同体にファーティマ朝の指導的な地位を認めさせようといくつかの試みを実行に移した。これらの試みは一部の地域では成功したものの、バフライン(東アラビア)のカルマト派は頑なに認めることを拒否した[28]。
- ^ サハラ以南との貿易、鋳造前の金の輸入、およびファーティマ朝の財政慣行がもたらした影響についての議論は、Brett 2001, pp. 243–266を参照のこと。
- ^ 宗派の勢力を拡大させることを目的とした国家組織の存在はファーティマ朝に独特なものであった。このような組織の存在はファーティマ朝によるイスラーム世界の統一を目指す活動の一環であるだけではなく、少数派であるイスマーイール派が教勢を維持するために継続的な教宣活動が必要であったことを示すものであると考えられている[59]。
- ^ 968年にシチリア島の総督のアフマド・ブン・アル=ハサン・アル=カルビーがエジプトへの遠征に向かう一部の海軍を率いるために家族とその財産とともに呼び戻された。アフマドは30隻の船とともにタラーブルスに到着したが、その後すぐに病に倒れて死去した[49]。史料では実際の征服時における海軍の活動については言及されておらず、征服から最も近い時点でイフリーキヤからエジプトに到着したファーティマ朝の艦隊についての言及がみられるのは972年の6月もしくは7月になってからである[71][72]。
- ^ 地元のイスラーム教徒はスンニ派が圧倒的に多数派であったにもかかわらず、アシュラーフ(ムハンマドの親族に連なる家系であると主張する人々)はエジプトで例外的に高い立場を享受し、アシュラーフの著名な人物はしばしば政治的な争いの調停役として求められた[79]。ファーティマ朝は地元住民と一体となったその影響力だけでなく、メッカとマディーナにいる近縁者のアシュラーフによって支配者の地位を認められることが重要であったために、積極的にアシュラーフの関与を求め、イスラーム世界における正当な指導者の地位に関するファーティマ朝の主張への後押しを得ようと注意を払っていた[80]。
- ^ この時のアマーンの文章は同時代のエジプトの歴史家であるイブン・ズーラーク(997年没)によって記録された。アマーンの詳細と、主として目撃者の証言からなるファーティマ朝による征服と最初の数年間の支配に関するイブン・ズーラークの記録は、イブン・サイード・アル=マグリビー、マクリーズィー、そしてイドリース・イマードゥッディーンなどによる、後の時代のほとんどすべての説明の基礎史料となっている[83][84]。マクリーズィーの引用によって伝えられているアマーンの文章については、Jiwa 2009, pp. 68–72を参照のこと。
- ^ ファーティマ朝の色はアッバース朝の黒とは対照的に白であったが、他に赤と黄色の旗がカリフ個人と結びつく形で存在していた。特定の重要な行事でカリフは赤い衣装に身を包み、両側には赤と黄色の旗が掲げられていたと考えられている[93]。
- ^ 近代以前の中東地域では、フトバで支配者の名前を読み上げることは支配者の持つ二つの特権のうちの一つであった(もう一つは硬貨を鋳造する権利)。フトバにおける名前の言及は支配者の統治権と宗主権を受け入れることを意味し、イスラーム世界の支配者にとってこれらの権利を示す最も重要な指標と見なされていた[97]。反対にフトバで支配者の名前を省くことは公に独立を宣言することを意味していた。また、重要な情報伝達の手段でもあるフトバは、支配者の退位と即位、後継者の指名、そして戦争の開始と終結を宣言する役割も担っていた[98]。
- ^ ファーティマ朝の宮廷がエジプトに移ったことで、結果として急速にイフリーキヤとシチリアに対する実質的な支配が失われた。その後の数十年でズィール朝とカルブ朝が事実上独立し、ファーティマ朝と敵対するまでになった[139]。
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