ナバス・デ・トロサの戦い カトリック連合軍の集結と脱落者の続出

ナバス・デ・トロサの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/19 06:16 UTC 版)

カトリック連合軍の集結と脱落者の続出

1199年に死んだマンスールの後を継いだムハンマド・ナースィルは1211年5月、10万を越える大軍を率いてジブラルタル海峡を渡り、6月にセビリアへ到着、カラトラバ騎士団の守るサルバティエラ城を包囲して9月に占領、カトリック諸国の心胆寒からしめた。これには、休戦中にも関わらずカスティーリャが植民を通じてムワッヒド朝の領土を侵略し始めていたこと、および軍事遠征でいくつかの砦を奪ったこと、アラゴンもバレンシア王国方面の砦を攻略したためムスリムがナースィルへ援軍を要請したことが原因とされている。しかしムワッヒド軍はイベリア半島上陸とサルバティエラ城攻略に時間をかけ過ぎたため、一気にトレドへ進軍出来ずセビリアへ引き上げて越冬せざるを得なかった[5]

ムワッヒド朝が新たに攻撃の準備をしていることを知ると、アルフォンソ8世は側近ロドリゴをローマへ派遣、教皇インノケンティウス3世の援助を願い勅書を求めた。教皇は期待に応え、フランスへアルフォンソ8世との合流を信者たちに呼びかける書簡を送り、十字軍召集と免償を約束したおかげでフランスは南部で多くの騎士たちが十字軍へ合流していった。また教皇はカトリック諸国間で争うのをやめ、アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争を戦うように命じた。アルフォンソ8世もサンチョ7世、ペドロ2世と同盟を確約した[6]

カトリック連合軍の構成は次のようであった。アルフォンソ8世の指揮する軍勢はカスティーリャの20の町の軍団の連合であった。メディナ・デル・カンポマドリードソリアアルマサンメディナセリとサン・エステバン・デ・ゴルメスなどの町が含まれていた。ビスカヤの領主ディエゴ・ロペス2世・デ・アロ英語版が旗の持ち手になった。

更に加わったのはサンチョ7世のナバラ軍、ペドロ2世のアラゴン軍、ポルトガルアフォンソ2世の軍である。ポルトガル軍はこの戦いには参戦したものの、王自身は参戦しなかった。それからテンプル騎士団サンティアゴ騎士団、カラトラバ騎士団、オスピタル騎士団などの騎士修道会や、フランスの司教に率いられた騎士らが加わった。レオン王アルフォンソ9世はアフォンソ2世と敵対していたために来なかったが、レオン王国の騎士たちは王の名代としてはせ参じた[7]

1212年の夏にこうしてカトリック連合軍はトレドに集結した。そしてナースィル率いる親征軍と歴史的な決戦をすべく、6月20日にトレドを出発、南方へ向かって進軍した。ムワッヒド軍も22日ハエンへ向けて進軍したが、カトリック連合軍は27日カラトラバ英語版を包囲、7月1日に降伏させた。退去を許された守備隊司令官イブン・カーディスはナースィルの前に出頭したが事情を聞き入れられず処刑、ムワッヒド軍は前進を続けナバス・デ・トロサの平原で野営、カトリック連合軍もナバス・デ・トロサに到着、決戦に備えて休息を取った[8]

アルフォンソ8世にとってはアラルコスの雪辱を果たす好機でもあったが、教皇至上主義の騎士たちの一部が連合軍から刃こぼれするように脱落していった。キリスト教連合軍の指揮官アルフォンソ8世に従ってついてきただけの義勇兵的な騎士たちには、政治的な了解などの強い動機があったわけではなかった。彼らにとって暑くて不快な慣れない気候は耐えられないものだったのである。このように、カトリック連合軍は必ずしも足並みが揃っているわけではなく、当初6万を超えた兵力は5万程度まで減少した[注 2]


  1. ^ マンスールは初め休戦を拒否、マドリードなどトレド周辺都市を荒らし回っていたが、北アフリカ・チュニジアで反乱が起こり足元に火が付いたため休戦を余儀無くされた。またこの時期、アラルコスの戦いで所領や団員の多くを失ったカラトラバ騎士団サンティアゴ騎士団など各騎士団は、教皇から新たに所領と城を補充してもらい戦力を増強した。ローマックス、P166 - P168、芝、P133。
  2. ^ アルフォンソ8世は普通のムスリム住民には寛容であり、カラトラバの町の住民に攻撃を予告して逃がしたために戦意を失ったフランス人騎士たちが帰国した。このフランス人たちに対する評判は悪く、帰路立ち寄ったトレドで彼等は市民から入城を拒否されたばかりか、石を投げられたり罵倒される有様で、従軍していたロドリゴはフランス人を痛烈に批判、アルフォンソ8世の娘ベレンゲラも戦後に父から報告を受け取り、フランスへ嫁いだ妹ブランカに伝達した手紙で戦勝報告とフランス人の離脱を書き送っている。ローマックス、P172、P175、鈴木、P178、芝、P224。
  3. ^ 脇腹へ抜ける山の間道(Despeñaperros Pass;直訳はDespeña-「絶壁から突き落とす」+-perros「犬たちorひどい、劣悪な」→「絶壁にある犬走り、間道」又は「絶壁にある劣悪な間道」か?)をこっそり通って奇襲をかけた、あるいはアンダルシア地方の「王の橋」を通ってシエラ・モレーナ山脈を通り抜けて攻撃をかけたという。鈴木、P178。
  4. ^ フェルナンド3世のレコンキスタが進展した背景にはムワッヒド朝やタイファの内乱があり、それに上手く付け入り町の住民へ寛大な条件で降伏を勧める調略と武力を駆使したことで容易に都市奪取が出来た。カリフ候補者のアブドゥッラー・アーディルアブー・ムハンマド・アル・バイヤーシースペイン語版の対立では1224年にバイヤーシーと兄弟のアブー・ザイド英語版を臣従させ、親アーディル派の地方を攻撃、バイヤーシーから協力の見返りにいくつかの都市を獲得した。1233年にはイブン・フードとグラナダ王ムハンマド1世の争いに乗じて、ムワッヒド朝に奪還されていたウベダを再占領、1236年にムハンマド1世と協力しながらコルドバを包囲して落とし、1243年のムルシア降伏でレコンキスタは順調に進んだ。1246年にムハンマド1世の臣従とハエン引き渡しも約束させ、1248年のセビリア陥落でレコンキスタは事実上の終結を迎えた。ローマックス、P188 - P190、P197 - P212、芝、P146 - P147。
  1. ^ ローマックス、P162 - P165、芝、P131 - P132、関、P113、P153、西川、P138。
  2. ^ ローマックス、P165、芝、P132、P193、西川、P138 - P139。
  3. ^ バード、P68、ローマックス、P165 - P166、芝、P132 - P134、P194、関、P153 - P154、西川、P139 - P140。
  4. ^ ローマックス、P168、芝、P134。
  5. ^ ローマックス、P168 - P169、芝、P137 - P138。
  6. ^ ローマックス、P169 - P170、芝、P138、西川、P140 - P141。
  7. ^ ローマックス、P170 - P171、芝、P138 - P139。
  8. ^ ローマックス、P171 - P172、芝、P139、西川、P141。
  9. ^ ローマックス、P172 - P173。
  10. ^ 芝、P139 - P140。
  11. ^ バード、P69 - P70。
  12. ^ ローマックス、P187、P191 - P192、P222、芝、P142 - P144、関、P115 - P116、P121。
  13. ^ ローマックス、P174 - P183、芝、P140 - P141、P144 - P146、西川、P142。
  14. ^ ローマックス、P188 - P216、芝、P146 - P148、関、P154、西川、P144 - P145。
  15. ^ ローマックス、P193 - P194、P202 - P203、芝、P146、関、P222 - P223、西川、P145 - P146。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ナバス・デ・トロサの戦い」の関連用語

ナバス・デ・トロサの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ナバス・デ・トロサの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのナバス・デ・トロサの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS