トマス・モア
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生涯
ロンドンの法律家の家に生まれた。聖アントニー校で学んだ後、カンタベリー大司教・大法官のジョン・モートンの家で従僕として教育を受け、1492年からオックスフォード大学で2年間ラテン語を学んだが中退し、1494年にニュー法学院へ入学、1496年からは、政界への近道であり人文主義教育の中心でもあったリンカーン法曹院で学び、1501年に法廷弁護士の資格を得る[1]。
1504年、下院議員選出。1510年にイタリアの人文主義者ピコ・デラ・ミランドラの伝記『ピコ伝』を、1516年には『ユートピア』を上梓するなど、著述活動も盛んになる[1]。1515年からイングランド王ヘンリー8世に仕え、ネーデルラント使節などを務めた。ヘンリー8世の信任は厚く、地位は次第に進み、1521年にはナイトの爵位を授けられ、1529年、官僚で最高位の大法官に就任した。
離婚問題を巡ってヘンリー8世がローマ教皇クレメンス7世と反目し、ヘンリー8世はモアに助言を求めた。3年間で6名の異端者を処刑するほどの熱心なカトリック信徒であるモアは王に対し、離婚を正当化するいかなる根拠も無いことを告げた。一方、カトリックによる支配からの離脱を求める王の主張は力を増し、1532年5月15日にはカンタベリーの宗教会議でヘンリー8世を「唯一最高の首長」とすることを承認した。モアは翌日に大法官を辞職した。
やがてヘンリー8世によるモアへの復讐が始まった。ヘンリー8世の側近トマス・クロムウェルが主導した1534年の国王至上法(国王をイングランド国教会の首長とする)にカトリック信徒の立場から反対したことにより査問委員会にかけられ、反逆罪とされて同年4月17日にロンドン塔に幽閉され、翌1535年7月6日に斬首刑に処された。この処刑は「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と言われている[2]。遺体の首はロンドン橋に晒された。
列聖
1935年にカトリック教会の殉教者としてモアと同じ1535年の6月22日に処刑されたジョン・フィッシャーとともに死後400年で列聖されており、記念日は6月22日である。政治家と弁護士の守護聖人となっている。
固有名詞の分類
思想家 |
バートランド・ラッセル ピュタゴラス トマス・モア アルミン・モーラー 廣松渉 |
教育関係人物 |
石井十次 宮崎典男 トマス・モア 皇至道 ラトケ |
カトリック教会の聖人 |
タルチシオ クリストフォロス トマス・モア エジプトのマリア ホセマリア・エスクリバー |
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