トマス・モア 生涯

トマス・モア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/10 06:31 UTC 版)

生涯

ロンドン法律家の家に生まれた。聖アントニー校で学んだ後、カンタベリー大司教・大法官のジョン・モートン英語版の家で従僕として教育を受け、1492年からオックスフォード大学で2年間ラテン語を学んだが中退し、1494年にニュー法学院へ入学、1496年からは、政界への近道であり人文主義教育の中心でもあったリンカーン法曹院で学び、1501年法廷弁護士の資格を得る[1]

1504年下院議員選出。1510年イタリアの人文主義者ピコ・デラ・ミランドラの伝記『ピコ伝』を、1516年には『ユートピア』を上梓するなど、著述活動も盛んになる[1]1515年からイングランド王ヘンリー8世に仕え、ネーデルラント使節などを務めた。ヘンリー8世の信任は厚く、地位は次第に進み、1521年にはナイトの爵位を授けられ、1529年、官僚で最高位の大法官に就任した。

離婚問題を巡ってヘンリー8世がローマ教皇クレメンス7世と反目し、ヘンリー8世はモアに助言を求めた。3年間で6名の異端者を処刑するほどの熱心なカトリック信徒であるモアは王に対し、離婚を正当化するいかなる根拠も無いことを告げた。一方、カトリックによる支配からの離脱を求める王の主張は力を増し、1532年5月15日にはカンタベリーの宗教会議英語版でヘンリー8世を「唯一最高の首長」とすることを承認した。モアは翌日に大法官を辞職した。

やがてヘンリー8世によるモアへの復讐が始まった。ヘンリー8世の側近トマス・クロムウェルが主導した1534年国王至上法(国王をイングランド国教会の首長とする)にカトリック信徒の立場から反対したことにより査問委員会にかけられ、反逆罪とされて同年4月17日ロンドン塔に幽閉され、翌1535年7月6日に斬首刑に処された。この処刑は「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と言われている[2]。遺体の首はロンドン橋に晒された。

列聖

1935年にカトリック教会の殉教者としてモアと同じ1535年の6月22日に処刑されたジョン・フィッシャーとともに死後400年で列聖されており、記念日は6月22日である。政治家と弁護士の守護聖人となっている。


  1. ^ a b c トマス・モア『イギリス文学入門』石塚久郎、三修社、2014、 p38-
  2. ^ a b トマス・モアとイギリスの人文主義女子教育石井美樹子 人文学研究所報 No.52 2014.8.25






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「トマス・モア」の関連用語

トマス・モアのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



トマス・モアのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのトマス・モア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS