ウィリアム・ブライ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 14:28 UTC 版)
バウンティの航海
1787年に、ブライは王立芸術協会の特別な要請により武装船「バウンティ」を指揮することになった。彼はまずタヒチ島に赴いて「パンノキ」を採取し、その後カリブ海に向かうことになっていた。そこでは、「パンノキ」が奴隷のための食用果実として適しているかどうかを実験することになっていた。しかしタヒチを出発した直後に起きた反乱のため、「バウンティ」がカリブ海に到着することはなかった。
タヒチへの航海は困難を極めた。「バウンティ」は荒天で名高いホーン岬を回るのに1ヵ月を費やした後、最終的にそれを断念し、喜望峰経由の長い道のりを辿らざるを得なかった。その遅れはタヒチに着いてからさらに大きな遅れを招いた。パンノキが運搬できるほど十分に熟するまでにさらに5ヵ月待たなければならなかったのである。「バウンティ」は、1789年4月になってようやくタヒチを出帆した。
「バウンティ」はカッターと同等の船とみなされていたため正規の士官はブライのみであり、他はわずかな乗組員しかおらず、停泊中に敵対的な住民から艦を守ったり、艦内の保安を担当する海兵隊も乗っていなかった。睡眠時間をより長く、連続して取るために、ブライは乗組員を2直でなく3直に分け、彼の代理として航海士(上級准士官)のフレッチャー・クリスチャンを据えて直のひとつをまかせた。反乱は、帰路の1789年4月28日、クリスチャンに率いられた第3直の乗組員によって起こされた。彼らはクリスチャンの夜間当直のときに火器をもって蜂起すると、ブライを脅して船室に閉じ込めた。
反乱者の方が少数であったにもかかわらず、他の乗組員らは誰も積極的な抵抗を示さなかった。ブライは捕縛され、船は流血なしで乗っ取られてしまった。反乱者たちは、ブライと、最後まで反乱に与しなかった18名をわずか23フィート(7m)の長さしかない艦載艇に乗せ、最も近い港に行き着くまでの2、3日分の食料と水、それに4本の斬込刀(カットラス)と六分儀と懐中時計だけを与えて海に流した。海図とコンパスは渡されなかった。艦載艇の乾舷はほんの数インチだけであった。艦載艇にはブライに忠実な乗員をすべて収容することができなかったので、反乱者たちは有用な技術をもっている者4名をバウンティ艦内に残した。彼らはタヒチに着いた後で解放された。
ブライらが捨てられた位置からはタヒチは風上であり、またそこは明らかに反逆者の目的地であった(彼らは、「バウンティ」が離れていくとき、反乱者が「タヒチ万歳!(Huzzah for Otaheite!)」と叫ぶのを聞いていた)。ヨーロッパの影響の及んでいる範囲ではティモールが最も近かった。ブライらはまず、必需品を確保するためにトフア島(Tofua)に向かったが、そこで彼らは敵対的な原住民から攻撃を受け、乗組員1名が殺された。彼らには身を守る武器がなく、また他の島でも襲撃されることが予測されたため、トフア島から逃げた後は近くの島々(フィジー諸島)に立ち寄る冒険を行うことはなかった。
ブライは自らの航海術をキャプテン・クックの元で磨いており、絶対の自信を持っていた。彼の最優先の義務は、生き延びて、反逆者を追跡できるイギリスの船に、できるだけ早く反乱の知らせを伝えることだった。そして彼はティモールへの、一見不可能な3,618海里(6,701km)の航海を完遂した。ブライは驚嘆すべき航海術によってこの47日間の航海を行い、トフアで殺害された1人のほかに犠牲者を出すことなく、ティモールに到着した。皮肉なことに、この試練を生き残った男の何人かは、疫病の蔓延するオランダ領東インドのバタヴィア港でイギリスへの輸送を待っている間に病気(おそらくマラリア)で命を落とした。
今日にいたるまで、反乱の原因は議論の対象となっている。ある者は、ブライが恐ろしい暴君であり、その虐待が乗組員の一部にブライから船を奪うしかないと決意させたと考えている。また、原因は乗組員のほうにあると考える者もいる。未熟で、海の厳しさに不慣れな者たちがタヒチの島で自由と性的な享楽を味わった後、「ジャック・タール(Jack Tar)」と呼ばれる[4]水兵の厳しい生活に戻ることを拒否したというのである。反乱者たちは性格の弱いフレッチャー・クリスチャンによって「指導され」、ブライの厳しい叱責から逃れるだけでも満足だった。この論者は、反乱者たちが船を奪ったのはタヒチでの快楽に満ちた快適な生活に戻るためであったと考えている。
「バウンティ」の航海日誌は、ブライが懲罰には控えめであったことを示している。他の艦長が鞭打ちを行ったであろうケースでは叱責処分とし、絞首刑に処したであろうケースでは鞭打ちで済ませていた。彼は教育を受けた人間であり、科学に深い興味を持っていた。そして、適切な節制と衛生とが乗組員の福祉のために必要であると確信していた。彼は乗組員の運動に大きな関心を払い、食物の質に注意し、バウンティを清潔に保つことに腐心していた。この、一面では卓越した海軍士官の欠点について、J・C・ビーグルホールはこう書いている。
(ブライは、)自分にできることについては独断的な判断を下した。彼は自分自身のことを知らなすぎた。うぬぼれは、彼の生涯を通じての欠点だった。・・・(ブライは)自分が侮辱している相手が友人になってくれることはないということに気づいていなかった。
大衆小説はしばしばブライを軍艦「パンドラ」の艦長エドワード・エドワーズと混同する。エドワーズは海軍の命を受けて、反逆者を見つけ、軍法会議の場に引き出すために南太平洋にやってきた。エドワーズは、どの点から見ても(ブライがしばしばそう言って非難されるような)容赦ない冷酷な男であった[5]。彼が捕えた14名は後部甲板に置かれた18フィート(5.5 m)×11フィート(3.4 m)×5フィート8インチ(1.7 m)の木製の檻に拘束されて閉じこめられた。「パンドラ」がグレート・バリア・リーフで座礁したとき、囚人のうちの4名と乗組員31名が亡くなった。檻が沈みゆく船から放り出される前に「パンドラ」の掌帆手ウィリアム・モルターがその鍵を開けなければ、囚人は全員死んでいただろう。
1790年10月、ブライは「バウンティ」喪失に関する軍法会議で無罪となり、名誉を回復した。その後まもなく、『軍艦バウンティの反乱の物語(A Narrative of the Mutiny on board His Majesty's Ship Bounty)』が出版された。生き残った10人の囚人のうち4人は、反逆者でなく、単にブライらを乗せた搭載艇のスペースが不足したために「バウンティ」に残ったのだというブライの証言によって無罪となった。2人は、反乱に加わってはいなかったものの消極的で反乱に抵抗しなかったという理由で有罪となったが、その後、国王の恩赦を受けた。1人は有罪判決を受けたが、特殊な事情で執行を免れた。残りの3人は有罪となって絞首刑に処せられた。
- ^ "Bligh; William (1754 - 1817)". Record (英語). The Royal Society. 2012年4月1日閲覧。
- ^ http://www.sttudy.org.uk/Bligh/bligh.htm
- ^ a b c d 当時のイギリス海軍では大将(Admiral)、中将(Vice Admiral)、少将(Rear Admiral)にはそれぞれ「〜of the Red」「〜of the White」「〜of the Blue」の3段階があり、将官の階級は元帥(Admiral of the Fleet)を含めて10段階あった。よって、青色中将(Vice Admiral of the Blue)と青色少将(Rear Admiral of the Blue)は上から7番目と10番目に位置される。
- ^ 帆船のロープなどには防水のためにタールが染み込ませてあり、水兵の衣服や体にもそれが付着していたことによる。
- ^ http://www.qm.qld.gov.au/features/pandora/information/faq.asp#3
- ^ http://www.sl.nsw.gov.au/banks/sections/section_09.cfm
- ^ a b http://www.kew.org/ksheets/fruits.html
- ^ http://www.royalnavalmuseum.org/info_sheets_william_bligh.htm
- ^ “The Rise and Fall of a Female Captain Bligh” (英語). タイム. (2010年3月3日) 2020年11月21日閲覧。
- ^ “Mutiny on the Bounty house:south London home of Captain William Bligh for sale for £2.5m” (英語). Homes & Property. (2020年8月24日) 2020年11月22日閲覧。
固有名詞の分類
- ウィリアム・ブライのページへのリンク