1851年クーデターまで
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「フランス第二共和政」の記事における「1851年クーデターまで」の解説
ルイ・ナポレオンの政治は、「国内では秩序、権威、宗教、そして民衆の福祉、国外では国家の威信」を柱としたが、その政治は反動的なものであった。オルレアン派と穏健共和派の連立であったバロー内閣を退陣させる一方、議会内の勢力均衡の観点からブルボン王朝派の閣僚ファルー公爵との協調を重視し、彼が提出した教育改革法案通過を支援した。ファルー法(フランス語版)と呼ばれるこの法律により、中高等教育の私学の認可とカトリック教会を支持する宗教教育が導入され、共和派の教員のパージがおこなわれた。こうした反動政策への反発から1850年3月の補欠選挙では30議席の改選議席の20議席を山岳党が占め、議席数を増やした。 しかし、秩序党はこの敗北に危機感を感じ、左派の封じ込めを図ろうと巻き返しを始めた。 秩序党が多数を占める議会は成人男子選挙権を骨抜きにするために、選挙法を改正しようと試みた。左翼を支持していた都市部の急進的な労働者から選挙権を取り上げるべく、選挙権を得るために必要となる居住期間を半年から3年に延長した。その結果、1000万人の都市労働者のうち、300万人が有権者資格を失うこととなった。とくにパリでの影響は大きく、有権者の62%が選挙権をはく奪されたと言われている。新選挙法は大統領選挙での議会の権限の強化も意味した。大統領選挙の有効得票数を200万票以上に規定されていたため、もし有効数に達しなかった場合には議会が上位3位から指名できた。山岳党は議会で反対の論陣を張ったが無謀な蜂起を避けた。1850年5月31日、新選挙法が議会を賛成多数で通過し、これにより議会は大統領指名の機会も高めた。同年6月9日、集会と結社の自由が禁止され、7月11日には新出版法により検閲が復活した。一方、ルイ・ナポレオンは新選挙法に反対の意思を表明したものの、成人男子選挙権の否定につながる政局に傍観を決め込んだ。彼は秩序党に反動の責任を押し付け、時が到来したら民衆の権利の擁護者として秩序党を処断するつもりでいた。 秩序党はルイ・ナポレオンの排除のためにあらゆる工作を試みた。そのひとつがルイ・ナポレオンの俸給問題であった。ルイ・ナポレオンは支持者の支援を得るため、自身の俸給とハリエッタ・ハワードからの借金によって資金を調達して、全国遊説に歓呼を叫ぶ支持者部隊を動員しており、軍の兵士たちに御馳走を振る舞ったり有力者に贈賄を繰り返す賄賂政治に頼っていた。議会は大統領に不信感を抱いていたため俸給の支給を拒絶していたが、クーデターへの懸念から選挙法改正の協力に対する謝礼として臨時俸給260万フランを支給することを決定する。 ルイ・ナポレオンの最大の障害物はパリ軍事総督シャンガルニエ将軍であった。ルイ・ナポレオンはシャンガルニエ将軍が秩序党と結託してクーデターを計画していることを察知、1851年1月3日、先手を打って将軍を更迭した。議会によるクーデターは阻止され、今度はルイ・ナポレオンがクーデターを試みる番となる。しかし、ルイ・ナポレオンは議会との平和共存のために大統領の再選禁止を規定する憲法第45条の修正を提案した。議会内でも大統領によるクーデターを回避する必要性が認識され、憲法改正の議論が積極的に交わされる。アレクシス・ド・トクヴィルも将来の政変の可能性を予測して憲法改正を支持したが、7月19日、6日をかけた議論の末に憲法改正案は賛成446票対反対278票で改正規定の三分の二に届かずに廃案となってしまう。かくして、ルイ・ナポレオンのクーデターは不可避となり、時期を待つのみとなった。 ルイ・ナポレオン大統領は選挙資格制限法の撤回を求めたが、提案を議会から拒絶されて、ついにクーデターを決意する。 1851年12月2日、警視総監モーバ、陸軍大臣サン・タルノー(英語版)、内務大臣シャルル・ド・モルニー、腹心ペルシニー、パリ総司令官ピエール・マニャン(英語版)の主導のもとに1851年12月2日のクーデターを起こし、国民議会を解散してオルレアン派のアドルフ・ティエールや王党派のベリエ、共和派のカヴェニャック将軍や、シャンガルニエ将軍が逮捕され、議会メンバーが次々と拘束された。 翌12月3日、民衆派議員ジャン・バティスタ・ボダン(英語版、フランス語版)はバリケード上で共和政の防衛のために立ち上がるよう民衆を鼓舞したが、銃撃を受けて死を遂げた。クーデターは抵抗を次々と排除して着々と進められ、成功を収めた。12月20日の国民投票の結果、成人男子選挙の復活と憲法改正を提示した大統領提案が可決され、クーデターは合法化された。1852年11月22日、国民投票でルイ=ナポレオンの皇帝即位が可決された。同年12月2日、皇帝ナポレオン3世として即位し、第二帝政の始まりとなった。 詳細は「ナポレオン3世」および「1851年12月2日のクーデター」を参照
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