1683年の火災
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「ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1669年)」の記事における「1683年の火災」の解説
1683年10月10日の夕刻、「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の艦首最下層部で原因不明の火災が発生した。それは急速に燃え広がり、最大限の努力をもってしても適切に鎮火できなくなった。乗組員は短艇(英語版)で避難しようとしたが、カープファンガーの命令でさらに消火を試みるべく火災の現場に回された。同時に「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の大砲から周囲の艦船に対し、応援の消火の派遣を求めるための信号弾が発射される。しかし火の手が甲板から前檣に広がり、不利な風によって索具(英語版)と帆に燃え移ると、急ぎ来援した者たちは爆発を恐れて安全な間隔を取った。カープファンガーは航海に同行していた、避難を呼びかける息子を艦から降ろす。しかしカープファンガーは、いまだに船を失われたものと見なさなかった。配下の士官は艦体に穴を開け、海水を満たして艦を海底に沈座させることを提案した。しかし、カープファンガーはこれを却下する。結局、彼は艦を座礁させるという案に賛成し、岸の近くへ乗り上げさせるべく、その艫綱(ドイツ語版)を切断させた。艦を離れるなど、彼にとっては元より問題外であった。なぜなら「託された艦隊の防衛にあたって雄々しく踏み止まり、艦を離れるよりは生命と財産、身命を捧げる」という、1674年7月14日の、ハンブルク市参事会(ドイツ語版)に対する誓いを守る義務があると考えていたからである。 護衛艦が岸へ向かってゆっくりと漂流する間、甲板下の火の手は艦尾に迫り続けた。結局、真夜中頃には次々に各砲に到達する。その結果、自然発火した砲はひとりでに砲弾を発射した。同時に、艦内の砲弾もいくつか燃えだした。午前1時、すでに艦が5時間も燃え続け、カープファンガー提督が誓いを守って最後の者として艦内に残っていた時、甲板下の火災が火薬庫に及び、遂にそれを爆破した。中央で割れた艦体の後部は吹き飛び、前部は側面を底にして沈み始める。破片は高所から降り注いだ。 この事故は65名の死亡者を出した。兵員22名、船員42名とカープファンガー提督が犠牲となったのである。彼の遺体は1683年10月11日、カディス港内であるイングランド船の錨索の付近に浮かんでいる所を発見された。 カープファンガーは葬儀の際、港内に在泊していた各国の船から相応の哀悼を捧げられた。同時代の記録によれば、弔砲は300発を数えたという。
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