1683年の火災とは? わかりやすく解説

1683年の火災

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 02:41 UTC 版)

ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1669年)」の記事における「1683年の火災」の解説

1683年10月10日夕刻、「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」の艦首最下層部で原因不明火災発生した。それは急速に燃え広がり最大限努力をもってしても適切に鎮火できなくなった乗組員短艇英語版)で避難しようとしたが、カープファンガーの命令でさらに消火試みるべく火災現場回された。同時にヴァーペン・フォン・ハンブルク」の大砲から周囲艦船対し応援消火派遣求めるための信号弾発射される。しかし火の手甲板から前檣広がり不利な風によって索具英語版)と帆に燃え移ると、急ぎ来援した者たちは爆発恐れて安全な間隔取った。カープファンガーは航海同行していた、避難呼びかける息子を艦から降ろす。しかしカープファンガーは、いまだに船を失われたものと見なさなかった。配下士官は艦体に穴を開け海水満たして艦を海底に沈座させることを提案した。しかし、カープファンガーはこれを却下する結局、彼は艦を座礁させるという案に賛成し、岸の近く乗り上げさせるべく、その艫綱ドイツ語版)を切断させた。艦を離れるなど、彼にとっては元より問題外であった。なぜなら「託され艦隊防衛にあたって雄々しく踏み止まり、艦を離れるよりは生命財産身命捧げる」という、1674年7月14日の、ハンブルク市参事会ドイツ語版)に対す誓いを守る義務があると考えていたからである。 護衛艦が岸へ向かってゆっくりと漂流する間、甲板下の火の手艦尾迫り続けた結局真夜中頃には次々に各砲に到達するその結果自然発火した砲はひとりでに砲弾発射した同時に艦内砲弾いくつか燃えだした。午前1時、すでに艦が5時間燃え続け、カープファンガー提督誓い守って最後の者として艦内残っていた時、甲板下の火災火薬庫に及び、遂にそれを爆破した中央割れた艦体の後部吹き飛び前部側面を底にして沈み始める。破片高所から降り注いだ。 この事故65名の死亡者出した兵員22名、船員42名とカープファンガー提督犠牲となったのである彼の遺体1683年10月11日カディス港内であるイングランド船の錨索の付近に浮かんでいる所を発見された。 カープファンガーは葬儀の際、港内に在泊していた各国の船から相応哀悼捧げられた。同時代記録によれば弔砲300発を数えたという。

※この「1683年の火災」の解説は、「ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1669年)」の解説の一部です。
「1683年の火災」を含む「ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1669年)」の記事については、「ヴァーペン・フォン・ハンブルク (1669年)」の概要を参照ください。

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