騎士戦争と農民戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/11 14:35 UTC 版)
「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の記事における「騎士戦争と農民戦争」の解説
1522年秋、ジッキンゲン(ドイツ語版、英語版)という近隣の騎士が大軍を率いてトリーア大司教領に攻め込んできた。騎士戦争である。ジッキンゲンは、ルターを奉じてカトリックの聖職者を撃滅すると称していたが、本当の狙いは武力をちらつかせて金を脅し取ることにあったのではないかとも考えられている。9月8日、ジッキンゲンらがトリーアへ最初に押し寄せた時点ではリヒャルトは留守にしており、町の広場でエッケンがジッキンゲンと向き合うことになった。このときジッキンゲンは8,000から12,000の兵を町の外に駐屯させていたのに対し、トリーア側の兵力は1,800だったと伝えられている。 ジッキンゲンの思惑に反し、トリーア側は徹底抗戦をすることになった。リヒャルトは町に戻り、近隣の諸侯へ助けを求める手紙を書いた。皇帝選挙の時にフランソワ1世の味方をしたことや、ヴォルムス帝国議会でルターを糾弾したことで、リヒャルトはドイツ諸侯から距離をおかれていたのだが、それ以上にジッキンゲンが嫌われており、すぐに援軍が現れた。 真っ先に救援に駆けつけたのはヘッセン方伯フィリップ1世とプファルツ選帝侯ルートヴィヒ5世だった。ジッキンゲンは何も得るものがないまま、9月14日にトリーアの包囲を解いて退散するしかなかった。しかし、かつて自領をジッキンゲンに荒らされたことがあるヘッセン方伯は、ジッキンゲンを追い払うだけでは不満足だった。そこで彼らは、ジッキンゲンを油断させるためにそれぞれの領地に戻ったとみせかけて、冬の間に軍備を増強し、翌春になると多方向からジッキンゲンの本拠に攻め込み、これを滅ぼした。このときリヒャルトは自ら武装し、軍を率いてジッキンゲン討伐に加わった。このあとリヒャルトはトリーアに近いエーレンブライトシュタイン要塞(ドイツ語版、英語版)に、当時としては史上最大のカノン砲を据え付けた。この要塞砲は「グリフィン砲(Kanone Greif)」と呼ばれた。 1524年から1525年にかけてドイツ南西部のフランケン地方やプファルツ地方で吹き荒れた農民戦争は、蜂起した軍勢の数の面でも影響のあった範囲の面でも騎士戦争よりもずっと大きかったが、トリーア大司教領自体は直接戦禍を蒙ることはなかった。しかしプファルツ選帝侯とマインツ大司教が援軍を求めてきた。 特にヴァインスベルクで起きた事件はリヒャルトに衝撃を与えた。前皇帝マクシミリアン1世の娘婿であるヘルフェンシュタイン伯(Grafen von Helfenstein)が農民に捕まり、田楽刺し刑にされたのである。これを知ったリヒャルトは、ケルン大司教とユーリヒ公国にも声をかけ、自ら農民団の征伐に乗り出した。リヒャルトは自ら剣を携えて部隊を率い、蜂起した農民の首を刎ねて回ったと伝えられている。リヒャルトは「勇敢で、恐るべき軍人(muthiger Kriegsherr geschätzt und gefürchtet)」だったと評された。 この間、リヒャルトが領地を不在にしている隙に、領内のボッパルト市が独立を企てる動きを見せたこともあったが、リヒャルトはこれを強気に封じ込めた。最終的に暴徒を鎮圧してライン川流域が平穏になるのには1527年10月までを要した。
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