騎士戦争
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騎士戦争(きしせんそう、ドイツ語: Ritterkrieg)は、1522年秋から1523年春にかけて、宗教改革期のドイツ南西部で起きた戦乱[1]。
注釈
- ^ 「靴の大きさだけの土地と人民ももたず、一片の土地もかれの名において治められておらず、かれがそこから収入を引き出すこともない[5]」(Johann Jacob Moserによる評)と言われたように、神聖ローマ帝国、もしくは神聖ローマ皇帝は、その帝国域内に対して直轄的な税収や軍事力を有していなかった[5]。ラント平和令と司法権を維持しようにも、そのための財源も人員もなく、司法権を保障するための武力もなく、実効性がなかった[4][6]。
- ^ が、実際にはその後も相変わらず「フェーデ」は無くならず、その解決も帝国法に基づく司法によってではなく、地元勢力による直談判や武力行使に頼ることになる[4]
- ^ 帝国騎士(ライヒスリッター)よりもさらに格下の、「ラント騎士(ラントリッター、Landritter)」と呼ばれる階層もあった。
- ^ もともとドイツの南西部(ライン川上流域)では、中世に数多くの争いを経て大地主から独立した者が多かった。そのために小さな領地の所有者が数多くいて、彼らの間には自由主義・民主主義的な思想が根づいていた[11]。
- ^ マクシミリアン1世の義父で、「豪胆公」と呼ばれたブルゴーニュ公国のシャルルは、1476年に騎士団を伴ってスイスに攻め込み、農民と市民からなる軽装のスイス傭兵に敗れた。当時の騎士は銃弾に備えてあまりにも重い甲冑に身を包んでいて動きが鈍く、シャルルも農民たちに簡単に馬から引きずり降ろされて袋叩きにされた。これが「騎士の終わり」とみなされている。娘婿のマクシミリアン1世は古い騎士道に憧れ、馬上槍試合を好んだが、実際の戦闘では傭兵を用いた[12]。
- ^ 古代ローマやギリシアはキリスト教が広まる前の世界だったので、この時代に対する関心と賞賛は、キリスト教的価値観や封建的価値観からの脱却を促すことになる[15]。
- ^ この時点では、ローマ教皇のレオ10世でさえも、アウグスティヌス修道会(ルター)とドミニコ修道会の「修道士どもの口喧嘩」程度のものだとみなしていた[17]。
- ^ この討論は、熱心なカトリック信者であったザクセン公ゲオルクの主催で、その領地であるライプツィヒで行われたものである。この討論には、カトリック側の弁者としてヨハン・エック、ルター側の弁者としてルター本人とアンドレアス・フォン・カールシュタットが出席した。カールシュタットはヴィッテンベルク大学におけるルターの同僚であり、彼が出席することはルターの教えがルター単独のものではなく、大学の神学部全体で公式に受け入れられていることを示すものだった。エックはルターの主張と15世紀のヤン・フスの主張に共通点があると指摘し、ルターはそれを肯定した。フスは異端とされていたので、カトリック側はこれによってルターも異端であると決め、破門することにした。一方のルター側はカトリック教会との温和な話し合いは不可能とみて決別を決めた[17]。
- ^ フッテンは著作の中で、マインツの聖職者が信仰よりも金稼ぎの方に熱心であることを描いたり、ローマ教皇を支えている3つの柱は権威、聖体、贖宥状の売上金だとし、ローマでは簡素・節度・信心のかわりに美女・名馬・そして教皇の教書が蔓延っているとした。詩人フッテンは、その文学的素養によって、宗教改革に貢献したと評されている[22]。
- ^ ルターはもともと教会の改革を訴えただけで、当初から教会組織を分裂させる意図はなかった。しかしフッテンは最初から愛国主義的観点からローマからの離脱を主張していた[22]。
- ^ 帝国アハト刑というのは、神聖ローマ帝国内での身の安全を保証しないという刑であり、実質的な追放刑である。しかしルターには既に教会によって異端宣告が成されていたので、身の安全が保証されないどころか、いつ殺されてもおかしくない状況だった。ルターを出したヴィッテンベルクの支配者、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、ヴォルムス帝国議会のあと騎士にルターを「誘拐」させ、ヴァルトブルク城に匿った。ルターは生死不明、死亡説も流れた。ルターはヴァルトブルク城で「騎士ゲオルク」と名を変えて、聖書のドイツ語訳に取り組むことになる[24]。
- ^ クライヒガウは現在のカールスルーエから北東へ20キロメートルほどの位置にあった。カールスルーエは1715年に建都された都市であり、騎士戦争の時代には存在していなかった[27]。
- ^ この脅しによって、ジッキンゲンは帝国侍従の地位を認めさせている。
- ^ ジッキンゲンの行動の裏には、神聖ローマ帝国と対立していたフランス王フランソワ1世がいたのだという説もある。これによると、ジッキンゲンがロートリンゲン(フランス風に言うとロレーヌ地方となる)を荒らしまわった頃にフランソワ1世と接近し、フランソワ1世のために働くという契約をしたという。マクシミリアン1世が死んで行われた1519年の皇帝選挙では、マクシミリアン1世の孫のカール5世と、フランス王フランソワ1世の両者が有力候補になっていた。(後にジッキンゲンが攻めこむ)トリーア大司教はフランソワ1世を推していた。ジッキンゲンは、騎士2,000騎を率いて皇帝選挙が行われるフランクフルトに押し寄せ、フランクフルトの警備に来たと言った。しかしフランクフルト市は賢明にもジッキンゲン一味を市内には入れなかった[28]。この皇帝選挙の経過や帰趨については歴史家によってさまざまな見方がある。第三次イタリア戦争なども参照。
- ^ ドイツの南部は、おおまかに西のシュヴァーベン地方と東のバイエルン地方に大別される。バイエルン地方にはバイエルン公国があり、ドイツ南東部からオーストリアにかけての広い地域を支配した。一方シュヴァーベン地方は小諸侯や都市が乱立していた。シュヴァーベン地方の勢力は、バイエルン公国に対抗するために15世紀の後半に同盟を結成した。これがシュヴァーベン同盟である。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のとりなしによって両者は和解したが、今度は同盟とヴュルテンベルク公が対立するようになった。
- ^ ウルリヒは自らのフッガー家に対する借金返済のために農民に課税して1514年に大規模な一揆を招いている。後述の愛人の件もあって妻を離縁すると、その父であるバイエルン公にも嫌われるようになった。さらに1519年に帝国自由都市ロートリンゲンを押領しようとして、とうとうシュヴァーベン同盟の介入を招いたのだった[34]。
- ^ 殺されたのはウルリヒの主馬頭をしていたハンス・フォン・フッテンという人物で、フッテンの従兄弟にあたる。ハンスの妻になった女性が実はヴュルテンベルク公ウルリヒの愛人であり、そのことで揉めた挙句、ヴュルテンベルク公は1515年にハンスを狩猟におびき出して刺し殺したのだった[35][36]。
- ^ カトリックとルター派の間の論争は多岐に及んでいたが、ミサにおける聖餐をめぐる議論もその一つである。聖餐の儀式は最後の晩餐に由来するもので、イエス・キリストがこの時パンと葡萄酒を「これは私の体と血である」といって弟子に食べさせたことにちなんでいる。この故事により、儀式の中で信徒はパンと葡萄酒を口にするのだが、当時のカトリック教会では一般信徒にはパンのみが与えられて、パンと葡萄酒の2種類を口にするのは司祭の特権になっていた[38][39]。これはルター以前から度々問題提起されてきたことだったが、15世紀のフスやルターは教会のやり方に異を唱え、全ての信徒にパンと葡萄酒の2種類による聖体拝領を授けることにしたのである[38][39]。以来、二種の聖餐や、ラテン語ではなく母国語で行うミサは、ローマ教会への反抗のシンボルとなった[39]。このときジッキンゲンもこの2種の聖餐の儀式を受け、それによりルター派に入ったことになった[13]。
- ^ ヤン・ジシュカは15世紀のフス戦争の英雄である。
- ^ ルターは初めこそこうした動きに理解を示していたが、騎士や農民の叛乱が拡大するにつれ、彼らを厳しく批難するようになった[43]。騎士戦争に対しては『世俗の権威について』(Zwei-Reiche-Lehre)を著して権力者に歯向かうことの罪を説き、農民戦争に対しては『殺人強盗をはたらく農民の徒党に対して』(Wider die Mordischen und Reubischen Rotten der Bawren)を著して厳しく批難した[44]。この中でルターは反乱農民を「打ち殺し、絞め殺し、刺し殺さねばならない」と述べている[43]。
- ^ 7人の内訳は、世俗諸侯としてザクセン選帝侯、プファルツ選帝侯、ブランデンブルク選帝侯、ボヘミア王の4人、聖界諸侯としてマインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の3人。
- ^ 皇帝選挙は7名の選帝侯の多数決によって行われるが、多数票を得た候補を最終的に全選帝侯が全会一致で選出する、ということになっている。
- ^ 帝国議会への出席ができないにせよ、騎士身分を有する者は各地の領邦ごとに設けられた領邦議会ではたいてい出席権があり、領邦議会の主要な構成員だった。そうでない領邦はごく限られており、既にジッキンゲンが滅ぼしたヴュルテンベルク公国、アンスバッハ、そしてトリーアがそれだった[47]。
- ^ このときのジッキンゲン本隊の兵力は騎兵1,500騎を含めて7,000程度であり、トリーアに着いたところで他所から味方が加わったとする説もある[37]。
- ^ ジッキンゲンの勢力範囲であるライン川流域は、ドイツとフランスの国境地帯にあたり、これまでもジッキンゲンはしばしばフランス側の勢力や町を攻撃していた。
- ^ 「プファルツ」というのはライン川の上流域の地方名である。プファルツの領主は神聖ローマ帝国の初期に宮中伯という要職に任じられており、「ライン宮中伯」とも呼ばれていた。このライン宮中伯に選帝侯位が授けられて、プファルツ選帝侯と呼ばれるようになった。
- ^ はじめはエラスムスに匿ってもらおうとしたが、断られたという。
- ^ フッテンは、ヨーロッパで梅毒で死んだ最初の人物として知られている[40]。正確にはフッテンが初めてというわけではなかったが(ヘッセン方伯の父が急死したのも梅毒が原因だったと伝えられている)、フッテンはフランスで梅毒に感染してからの病状を日記に書き残していて、それによってヨーロッパで梅毒に関する知識が拡がった。
- ^ エーレンブライトシュタイン要塞はライン川岸の岩山の上に築かれており、現存する。
- ^ この時期には各諸侯が自領地の宗派を選ぶことができるようになっており、南西ドイツ最大の領地をもつヴュルテンベルク公領がカトリックになるのかプロテスタントになるのかは、両派にとって重大な意味を持つことになる。
出典
- ^ 世界大百科事典 第2版,「騎士戦争」,コトバンク版,2016年12月28日閲覧。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ),「騎士戦争」,コトバンク版,2016年12月28日閲覧。
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- ^ 白崎嘉昭,「[https://doi.org/10.11282/dokubun1947.69.32 矛盾と自己実現 「フッテン最後の日々」試論」 『ドイツ文學』 1982年 69巻 p.32-41
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